子供たちと『ドラえもん』を見に行った。
行きつけの床屋さんでは『アナと雪の女王』が好評だったのでそれに行きたかったが、子供が『ドラえもん』といえば仕方ない。
(もちろんアメリカからBlue-RayでFrozenをとりよせればいいのだが、これも子供たちが英語がわからないという理由で却下された)
しかし『ドラえもん』も面白かった。
顔がみえないのをいいことにワンワン泣いた。
(まわりのひとは全然泣いていなかった、日に日に琴線が繊細というよりもろくなってきた感がある。ひとことでいえばモウロクしたのだろう)
以前も書いたが、新しい物語を探している。
これは新しい人生の模索でもある。
なぜなら物語と人生は相似関係にあるからだ。
先日アメリカでベストセラーだったHow To Read Like a Professorがrevised されたというので、買ってみたら、同じことが書いてあった。
(僕としてはこれらが相似関係といえる理由を理路整然と説明してほしかったが、書いてなかった)
How to Read Like a Professorには文学作品の読み方が載っていて、そのキーワードは、Memory、Symbol、Patternである。
各文化圏や分野には、登場できる駒が決まっていて、それがSymbol。
Symbol化すると一見表層は異なる物語同士に通底するものがみえてくるので、Memoryを探していくと、Patternがみつかるというわけだ。
その点今回の『ドラえもん』もEntertainment作品の王道である。
つまり窮境(打開できない状況)があって、それを解決するために「異なるベクトルの統合」が行われる。
だから西洋的といってもいい。弁証法だから。
『ドラえもん』の場合はその統合がドラえもんの道具で行われる。
映画でも圧倒的に不利な状態を打開するためにあと5人の勇者が必要になるのだが、まさか自分たちの努力を前借りする道具を用意するとは思わなかった。
絶体絶命ののび太たちの前に、別ののび太くんたちがタケコプターで現れたときは痛快だった(そこで涙がどっと出た)。
つまり作品のEntertainment性は、その統合がいかに巧妙に仕掛けられているかにかかっているといいたい。
いくら統合できても「なんでもありかよ」というのでは困るし、みえみえでも面白くない。
それまでに用意されている、異なる方向を向いていたすべてのベクトルが見事に結集された大団円が面白いわけだ。
人生でもそのような大団円を迎える可能性があるという点で似ている。
ただし人間は、それを運命の予感か第六感などで「予期」しつつ勝てるようにというより負けないように修正するため、むしろ小団円を余儀なくさせられる点で異なる(だからこそEntertainment作品が面白いのであろう)。
その点将棋が面白い理由もみえてくる。
将棋も勝敗がつくから、負けないように修正が必要であるだけでなく、小団円の作り方が重要になってくるからである。
百手前後の指し手があるとして自らの決断が50回あり、そのなかでトータルな団円を築く。
その決断の仕方にはいろいろな真実が垣間見える。
昨日1992年のNHK杯羽生棋王対米長九段戦と、昨年の王将戦第三局羽生対渡辺戦をみた。
米長と羽生戦は本当に新旧の闘いで、昔の常識で生きていた米長が、新しい羽生に恐れを抱き、そのために機先を制された試合だった。感想戦でも「バカだった」と米長は何度も繰り返した。
ふたつめの羽生対渡辺戦は羽生の力勝ちだった。結局のところその予測がいかに深く正確かが最も重要という正論の将棋で、渡辺は一刀両断にされた。
これらは実人生の問題に対する正答であろう。
Entertainment性では圧倒的に対渡辺戦が面白かった。米長も渡辺も羽生が用意していた大団円をみることができなかったから負けたわけだが、対渡辺戦の方がより巧妙というよりみえなかった!
「見えない大団円」。人生はEntertainmentということか。
行きつけの床屋さんでは『アナと雪の女王』が好評だったのでそれに行きたかったが、子供が『ドラえもん』といえば仕方ない。
(もちろんアメリカからBlue-RayでFrozenをとりよせればいいのだが、これも子供たちが英語がわからないという理由で却下された)
しかし『ドラえもん』も面白かった。
顔がみえないのをいいことにワンワン泣いた。
(まわりのひとは全然泣いていなかった、日に日に琴線が繊細というよりもろくなってきた感がある。ひとことでいえばモウロクしたのだろう)
以前も書いたが、新しい物語を探している。
これは新しい人生の模索でもある。
なぜなら物語と人生は相似関係にあるからだ。
先日アメリカでベストセラーだったHow To Read Like a Professorがrevised されたというので、買ってみたら、同じことが書いてあった。
(僕としてはこれらが相似関係といえる理由を理路整然と説明してほしかったが、書いてなかった)
How to Read Like a Professorには文学作品の読み方が載っていて、そのキーワードは、Memory、Symbol、Patternである。
各文化圏や分野には、登場できる駒が決まっていて、それがSymbol。
Symbol化すると一見表層は異なる物語同士に通底するものがみえてくるので、Memoryを探していくと、Patternがみつかるというわけだ。
その点今回の『ドラえもん』もEntertainment作品の王道である。
つまり窮境(打開できない状況)があって、それを解決するために「異なるベクトルの統合」が行われる。
だから西洋的といってもいい。弁証法だから。
『ドラえもん』の場合はその統合がドラえもんの道具で行われる。
映画でも圧倒的に不利な状態を打開するためにあと5人の勇者が必要になるのだが、まさか自分たちの努力を前借りする道具を用意するとは思わなかった。
絶体絶命ののび太たちの前に、別ののび太くんたちがタケコプターで現れたときは痛快だった(そこで涙がどっと出た)。
つまり作品のEntertainment性は、その統合がいかに巧妙に仕掛けられているかにかかっているといいたい。
いくら統合できても「なんでもありかよ」というのでは困るし、みえみえでも面白くない。
それまでに用意されている、異なる方向を向いていたすべてのベクトルが見事に結集された大団円が面白いわけだ。
人生でもそのような大団円を迎える可能性があるという点で似ている。
ただし人間は、それを運命の予感か第六感などで「予期」しつつ勝てるようにというより負けないように修正するため、むしろ小団円を余儀なくさせられる点で異なる(だからこそEntertainment作品が面白いのであろう)。
その点将棋が面白い理由もみえてくる。
将棋も勝敗がつくから、負けないように修正が必要であるだけでなく、小団円の作り方が重要になってくるからである。
百手前後の指し手があるとして自らの決断が50回あり、そのなかでトータルな団円を築く。
その決断の仕方にはいろいろな真実が垣間見える。
昨日1992年のNHK杯羽生棋王対米長九段戦と、昨年の王将戦第三局羽生対渡辺戦をみた。
米長と羽生戦は本当に新旧の闘いで、昔の常識で生きていた米長が、新しい羽生に恐れを抱き、そのために機先を制された試合だった。感想戦でも「バカだった」と米長は何度も繰り返した。
ふたつめの羽生対渡辺戦は羽生の力勝ちだった。結局のところその予測がいかに深く正確かが最も重要という正論の将棋で、渡辺は一刀両断にされた。
これらは実人生の問題に対する正答であろう。
Entertainment性では圧倒的に対渡辺戦が面白かった。米長も渡辺も羽生が用意していた大団円をみることができなかったから負けたわけだが、対渡辺戦の方がより巧妙というよりみえなかった!
「見えない大団円」。人生はEntertainmentということか。