先日高校野球の全国大会の決勝をみた。
先取点をとった東海大相模に、追いついた仙台育英、6対6.
流れは仙台育英だなと思った8回の攻撃2死、仙台の選手が、死球を狙ってアウトになった。
流れが変わった。
9回東海大相模のエース小笠原に本塁打が出て、その後加点し、終わってみれば大差で東海大相模の勝利。
当然翌日の見出しは、小笠原の投打にわたる活躍になるが、あのホームランは、小笠原の力というよりは試合の流れがもたらしたものだと思う。
ゆるいカーブがスタンドにはじかれたあの瞬間は、真空状態のような雰囲気があった。
僕はこういうのをみるのが好きだ。
野球の醍醐味はいろいろあるが、抗いようのない「試合の流れ」が洪水のように押し寄せて試合を決める瞬間をみるとき、スポーツが教育の場の反映になることを実感する。
選手個人は、教えられたことを反復して練習し、技術者としての完成を目指すが、指導者はそうではない。各選手の完成をうながしつつ、チーム全体の完成度をあげ、実戦でそれが見事に機能するよう采配する。
死球ねらいは、勝利への近道として教えられてきたものであり、流れをかえたあの行為は、監督の采配である。
別に監督を責めたいわけではない。
昔から石にかじりついてでも塁に出るとか、死球でもいいから、というのは高校野球でもよくあることだった。
だが、何かが違う。日本にスポーツは普及したが、アマ精神が失われつつある。
アマ精神とは、勝負を勝敗に優先させることで、古いといわれようと、僕はそれを嘆くものである。
スポーツにはルールがあるが、実力が拮抗してくると、ルール内外のぎりぎりのラインが問題になってくる。
ボール半個分ストライクゾーンから外してバッターを打ち取るのだ。
これは素晴らしい技術でこれを否定したいわけではない。
ただ青少年に勝敗へのこだわりのためにルールのライン際の攻防を教えてしまうと、単にスキをねらうようになる。
しかもそれを現実生活にいかす。大人の顔色をうかがって、行動を決める。店員がある客にかかりきりになっているスキに、商品を盗む。
確かにプロスポーツの世界も現実世界もそうだが、次代の社会を担う青少年に教育の一環として行うスポーツもそうあるべきなのか。
もうスポーツは、単なる一職業への道でしかないのか。
百歩譲ってそうだったとして、青少年のうちからそうした勝負ばかりで、本当にプロになる技術は伴うのか。
などと憤った僕の気持ちを静めてくれるのは、やっぱり勝負にこだわった珈琲だ。
バリ ジャラック メサイア(インドネシア)で、何と言っても輪郭がいい。苦味、こく、甘みなど、それぞれの指標で5点満点がつく個性的な存在でありながら、それぞれを十全に発揮しても全体として鋭利な刃物ののようになっている。、
もちろんそのように研ぎ澄ますためには技術がいる。
先日いつも飲んでいる一番好きな珈琲(一番好きなので銘柄は教えない。勝負がいいといっておいてやっぱり勝敗にこだわる矛盾が僕のチャーミングなところだ)のバランスが気に入らなかったので、伝えると、「申し訳ありませんでした、数秒替えてみます」と返事があっておくられてきたものの素晴らしいこと!
日本には素晴らしい技術者がいることを再認識させられた。
もちろん素材の良さも技術がつくる。日々の積み重ねで作られるペナントレース的なものだが、日本では、という条件はつくものの自然放牧で有名な牧場兼レストランで頂いた肉が凄まじかった。
いつもいくフレンチと比較しても、技工ともてなしの点は除けば(数日前も急にお邪魔したのにスペインの栗ばかり食べさせた牛が出てきた。もちろんメニューにはない。かれこれ四年になるがいまだ同じメニューどころか素材も出て来ていない印象だ)、素材としての牛肉は遜色ない。
そこは素材の確かさを確かめられるためか、アイスをつくったり、乳搾りといったアトラクションもあったが、これだけ大事に育てる技術があればこそ、あの素材につながるのだろう。
困るのは、こういう美味しいものを頂くとついウキウキして、ギャグを一発かましたくなることだ。
乳搾りの係員のお姉さんについ「俺のテクニックで、牛は感じませんかね?」と言いたくなったが、子供の教育上我慢した。
先取点をとった東海大相模に、追いついた仙台育英、6対6.
流れは仙台育英だなと思った8回の攻撃2死、仙台の選手が、死球を狙ってアウトになった。
流れが変わった。
9回東海大相模のエース小笠原に本塁打が出て、その後加点し、終わってみれば大差で東海大相模の勝利。
当然翌日の見出しは、小笠原の投打にわたる活躍になるが、あのホームランは、小笠原の力というよりは試合の流れがもたらしたものだと思う。
ゆるいカーブがスタンドにはじかれたあの瞬間は、真空状態のような雰囲気があった。
僕はこういうのをみるのが好きだ。
野球の醍醐味はいろいろあるが、抗いようのない「試合の流れ」が洪水のように押し寄せて試合を決める瞬間をみるとき、スポーツが教育の場の反映になることを実感する。
選手個人は、教えられたことを反復して練習し、技術者としての完成を目指すが、指導者はそうではない。各選手の完成をうながしつつ、チーム全体の完成度をあげ、実戦でそれが見事に機能するよう采配する。
死球ねらいは、勝利への近道として教えられてきたものであり、流れをかえたあの行為は、監督の采配である。
別に監督を責めたいわけではない。
昔から石にかじりついてでも塁に出るとか、死球でもいいから、というのは高校野球でもよくあることだった。
だが、何かが違う。日本にスポーツは普及したが、アマ精神が失われつつある。
アマ精神とは、勝負を勝敗に優先させることで、古いといわれようと、僕はそれを嘆くものである。
スポーツにはルールがあるが、実力が拮抗してくると、ルール内外のぎりぎりのラインが問題になってくる。
ボール半個分ストライクゾーンから外してバッターを打ち取るのだ。
これは素晴らしい技術でこれを否定したいわけではない。
ただ青少年に勝敗へのこだわりのためにルールのライン際の攻防を教えてしまうと、単にスキをねらうようになる。
しかもそれを現実生活にいかす。大人の顔色をうかがって、行動を決める。店員がある客にかかりきりになっているスキに、商品を盗む。
確かにプロスポーツの世界も現実世界もそうだが、次代の社会を担う青少年に教育の一環として行うスポーツもそうあるべきなのか。
もうスポーツは、単なる一職業への道でしかないのか。
百歩譲ってそうだったとして、青少年のうちからそうした勝負ばかりで、本当にプロになる技術は伴うのか。
などと憤った僕の気持ちを静めてくれるのは、やっぱり勝負にこだわった珈琲だ。
バリ ジャラック メサイア(インドネシア)で、何と言っても輪郭がいい。苦味、こく、甘みなど、それぞれの指標で5点満点がつく個性的な存在でありながら、それぞれを十全に発揮しても全体として鋭利な刃物ののようになっている。、
もちろんそのように研ぎ澄ますためには技術がいる。
先日いつも飲んでいる一番好きな珈琲(一番好きなので銘柄は教えない。勝負がいいといっておいてやっぱり勝敗にこだわる矛盾が僕のチャーミングなところだ)のバランスが気に入らなかったので、伝えると、「申し訳ありませんでした、数秒替えてみます」と返事があっておくられてきたものの素晴らしいこと!
日本には素晴らしい技術者がいることを再認識させられた。
もちろん素材の良さも技術がつくる。日々の積み重ねで作られるペナントレース的なものだが、日本では、という条件はつくものの自然放牧で有名な牧場兼レストランで頂いた肉が凄まじかった。
いつもいくフレンチと比較しても、技工ともてなしの点は除けば(数日前も急にお邪魔したのにスペインの栗ばかり食べさせた牛が出てきた。もちろんメニューにはない。かれこれ四年になるがいまだ同じメニューどころか素材も出て来ていない印象だ)、素材としての牛肉は遜色ない。
そこは素材の確かさを確かめられるためか、アイスをつくったり、乳搾りといったアトラクションもあったが、これだけ大事に育てる技術があればこそ、あの素材につながるのだろう。
困るのは、こういう美味しいものを頂くとついウキウキして、ギャグを一発かましたくなることだ。
乳搾りの係員のお姉さんについ「俺のテクニックで、牛は感じませんかね?」と言いたくなったが、子供の教育上我慢した。