雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

未成年

2011-01-19 13:03:00 | 音楽
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息子が美しい。

日ハムの斉藤祐樹のような顔立ちである(将来の伴侶として息子を紹介する予約受付中:ただし最終的判断は息子、持参金4億円以上、仲介料200万円、成功した場合はその10倍)。

といったら、「親バカだねぇ」と笑われた。

僕はもちろん憤然としていった。

「親バカではない。親バカとは、自分の子供のレベルが世界トップクラスと比肩することをいう。斉藤は所詮野球選手レベルの顔でしかない。その程度の二枚目なら五万といる」と。

するとそこまで真剣に回答することないのに、という顔をされた。

最近その「そこまで」といわれることが多く、腹立たしい。

「そこまで」考えて当然だろうに、と思うのである。

事の本質を見つめた上でなら100%ではなく7~80%で抑え込む必要は生じる。

しかし全体をみずに部分の都合で「そこまで」にするのはどうかと思う。

中国の加減はまさにそうしたものであり、日本は違う。

事の本質ではなく既存の既得権益者たちの利害折衝に過ぎない。

もちろん政治家は「抜本的な」とか「複数の改革を同時に」という認識はしている。

しかし実際は各部分的改革が全体に寄与するような方向ではない。

菅さんも総理大臣なら、小沢にいい案を出したら帳消しくらいいっていい。

今あれほど無駄な議論はなかろう。

そうした憤怒を娘の幼稚園探しでも感じた。

最近娘が他人とのコミュニケーションを求め始めたので、幼稚園に体験入園してみた。

身の回りのひとたちはなぜかいいことばかりしかいわないので、娘は張り切ってどんな勉強ができるのかと期待して出かけた。

僕らとしては娘が3月生まれなので最大一年近い成長の差があることを危惧していたが、それどころじゃなかった。

名前を呼ばれて「はいっ」という返事とともに天の高みに向けて手を挙げられたのは娘だけだった。

あとはてんやわんやで先生にとびかかっていく子や傍らでんぐり返している子なんかもいる。

先生は教室の体裁を整えるためにその子らに関心向け、うちの子がどんなに絵をかいたりシールを張ったり、踊っても見てもらえることはない。

日本の教育とは、少なくとも僕が知ってる限りではこういうものだ。つまりはじめから程々を望むだけだから、先生の関心はその場を乱すやつの矯正とできる子(ここでの「できる」とは教員が期待することをしてくれる意:すなわち秀才のこと)にだけ向かうのだ。

ただし幼稚園ではできる子は大人しい子と同義で、放っておかれる。

かくして日本風Silent Majority が出来上がるのだ。

こんなんであの騒々しいやつらと同額を支払わされたら大損だ(わざわざ妥協させるために幼稚園にいれることはない)。

その後2、3幼稚園に行ったが、娘はもう幼稚園に期待しなくなったらしく幼稚園の名を口にしなくなった(それまでどれだけ楽しみにしていたことか)。

そして僕に言った、「勉強したい、本持ってきて」

僕も同じ気持ちになったので、本をあさった。

一冊目が中沢新一の『カイエソバージュ』シリーズである。

が彼が提示したのは、所詮モデルでしかないように思えてならなかった。

神の出現についての説明にしても、高神から絶対神への移行についてもこねくりまわしているようにしか思われなかった。

ただしいい面ももちろんあった。

僕は人類学というと山口昌男に傾倒した。

大江健三郎から入ったわけだから当然だったが、大学院のとき、山口を嫌う先生に会った。

もちろん人となりではなく、山口の研究姿勢にも「彼が通り過ぎたあとには一本の草も残っていない」というこのうえない評価をしたうえで、彼の認知モデルのフィクション性が嫌だ、といった。

当時の僕は山口の「中心と周縁」はとてもシンプルでフィクション性など感じていなかったのだが、今回この本をみて、山口を疑ってみたい気になれた。

疑ってみたい気になれたのがうれしいというより、大学院時代の恩師がいったことを時間はたったが追体験できたことが満足感を与えてくれたのだ。

しかし僕の憤怒は晴れないので、二冊目、ドストエフスキーの『未成年』に行った。

B4版の全集で600頁もある大作を乳飲み子を抱えているにもかかわらずあっという間に読ませたドストエフスキーをまず讃嘆しなければならない。

しかしもっと切実に明らかになったのは、僕自身が未成年であること。

「そこまでしなくても」あるいは「そこまで考えなくても」いいことばかりして、100%、中沢の言葉でいえば、絶対神を頂く全体を見下ろす位置に立とうとして実際は立てず、つい天邪鬼になっている主人公は、まさに自分をみているような気がした。

ふと傍らの娘が~の第二楽章からCDをかけた。

息子のお気に入りだからである。

こんなのもありかな、と思った。