雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

晩夏のフレンチ

2013-09-22 19:56:36 | 料理
なんの記念日でもないが、革ジャンを買ってもらった。

なんで買ってもらえたのかわからぬまま買い、買った後妻に「なんで買ってくれたの?」と訊いたら、口を手で押さえ、「なんでだろ?買わせるのうまいね!」と驚かれた。

世の中うまくいくときはこんなものだと、ここ数日で上昇しているのに、先週売ってしまった株券をみて、そう思った。

さて、今日は、待ちに待ったボンヌマンでの食事。

今日は初秋というより晩夏の食材で盛りだくさんだった。

ここのご主人が直接フランスの卸から買うためどうしても季節感がずれる。

さて、今日の品々。

不覚にも前菜と二品目は写真を撮る前に手が出てしまったが、一品目はかろうじてきれいなのので載せてみる。



二品目はこれこそ晩夏というサマートリュフとフォアグラが絶妙だったが、娘と息子がハイエナのように僕の皿から持って行った(子供たちのコースにフォアグラはなかった)。

面白かったのは、三品めの「イサキのムース詰め網油包み焼」。



これは、豚の横隔膜にイサキをはじめとした魚介を包み焼したものだが、なんともいい歯ごたえと味のバランスが絶妙だった。

豚の横隔膜だから臭いが残りそうだが、すごく手間をかけて(教えてもらったが覚えていられなかった)それを抜いて、とても自然な、はじめからそこにあったかのような感覚にさせるところがシェフのすさまじいところだ。

メインディッシュは、「パティのプーラルドのソテー」。



今フランスの二つ星、三ツ星レストランで人気が出ているというだけあって、味の濃厚さは格別だった。

最後のデザートは秋の味覚だが、栗の渋皮煮の蜜と、チョコと、採り立てのホクホク栗の三重奏。



ごちそうさまでした。

Gung Ho!

2013-09-22 19:55:56 | 将棋・スポーツ
娘の通う幼稚園から、保護者に、運動会で綱引きに出場するかどうかを問い合わせる案内が来た。

妻が「どうする?」というので、きっぱりと「出る!」と答えた。

「雪辱戦だね?」と妻はにやにやしていた。

昨年僕のチームは一回戦負けだった。

とにかくスポーツというのは精神力だなとつくづく思う。

一年前、運動会と何年ぶりかの再会を果たした。

ずっと会っていなかった級友に会ったかのように気恥ずかしい思いがあった。

小・中・高と12回もやってきた運動会に、親として出るにあたり(これから12回以上は出るだろう)、いろんな感情や感慨がないまぜになって整理がつかないまま競技に臨んだ。

最初の出番は娘との二人三脚だった。

まあこんなことに真剣になっても仕方ない、要は子供たちと楽しむことが重要なんだから、とこれも僕だけでなく多くの親が考えていたに違いない。

しかしスタートのピストルがなると、そんなあいまいな気持ちは吹っ飛んだ。

僕ら親子は五走だったのだが、最初の親子はどうみてもあまりに真剣に走っていた。

おそらくビリにはなりたくない、そんな消極的な気持ちではない。そしてそれはほかのクラスもそうだった。

僕ら桃組は出遅れ、緑組が一位に躍り出たが、その緑組は、子供を小脇に抱えて完全に勝負に走っていた。

いやがうえにも勝負心がメラメラしてくる。

そのためか、僕の前の前を走る三走の親子は、親のペースで走ったために子供をひきずり、終わった後その母親は何度も子供に「痛かった、痛かった」と泣きじゃくられ、叩かれていた。

僕の前の四走が走っている間、後ろの六走のお父さんと話した。

「やばいですね、こりゃ」

「そうですね、まじっすねみんな」

取り敢えず僕はそつなく娘のペースで笑顔になることだけを言い聞かせて走った。

抜きもしなかったが抜かれもせず、チーム自体ビリから2番で終わった。

完全燃焼する必要はないのに、妙なくすぶり感があった。

そして最後に綱引き。

入場門から娘たちがみているなか行進していくと、妙なテレと興奮で視界がせまくなった。

選手は40人近くいるのだから、僕だけがみられているわけではないのに、みんなの注目を一身に浴びている気になった。

迎えた一回戦、勝負にこだわるつもりはなかったが、こういうときはチーム一丸となって戦うことが必要だから、僕が大将役を買って出て、みんなに号令かけようかと思ったその瞬間、同じことを考えていたじいさんが「エイエイオー」とやった。

妙にリーダー面して、はっきりいって白けた(たぶんぼくだけじゃなく、大将役やるかどうか迷ったひとは何人かいたかもしれない)。

一気に士気が衰え、気力が分散した。

その虚をつかれ、ピストルの号砲と同時に2mほどひかれた。

あわてて取り返そうと引っ張ったが、取り返せない。

そのまま小康状態が続き、このままでは一回戦負けだと思った瞬間、みな本気になった。

僕も思いっきり踏ん張って、ひと引き、全力でやったが、無情にも笛がなって負けた。

我がチームは呆然とした。こんなはずじゃなかった、あのくそじじいっ、と思ったのは僕だけじゃなかったろう。

と同時に、じいさんのたったひとことに心をかき乱された自分を恥じた。

しかもウォーミングアップを全くしていなかったので(全力を出す必要もそのつもりもなかった)、その全力のひと引きで肩をこわし、その日から3日ほとんど動かせず、その後トレーニングも3か月できなくなり、痛みは今も時々する。

それ以来自分のノリヤスサと馬鹿さ加減をずっと悔いてきたが、ついにそれを払拭するときが来た。

気功でサポーターをつくっておけば全力も出せるから、今度こそ、雪辱を果たそう。

時は、10月12日、いざ出陣!!

秋到来

2013-09-16 20:02:42 | 料理
秋の味覚を一足早く堪能した。

場所は、箱根の山の茶屋。



栗にしても、秋刀魚の寿司にしてもたまりませんでした。

それから酒もいい。



広島の雨後の月ははじめてだったが、すっきりして、辛口+5くらいだろうか。

それからやっぱり土瓶蒸し。



今までで一番よかった土瓶蒸しかもしれない。

台風一過、また明日から頑張ろう。

ご馳走様でした。

9月の放射線感知情報

2013-09-03 00:43:57 | 震災
今月は急激な変化(放射線漏れがあった兆候と思われる)を記録したいと思います。
30日: 午後2時過ぎくらいがピークだろうか。強かった。前回紹介した科学者によると、自然に近い状態だと、放射線感知はあるとのこと。
27日: ご無沙汰してしまったが、この一週間放射線を感じなかったわけではない。今もそうだがむしろ強いことが多く、体調が崩れた。右の耳の後ろ辺りから、丸太ほどの棒状の邪気がまっすぐ水平に伸びたりしていた。でも以下の記事を読んで、一言いいたくなった。


政府、福島第1原発の汚染水リスク公表 実現性には疑問も(産経新聞) - goo ニュース

後手になることを怖れてとあるが、今の科学力では後手にならざるを得ないだろう。例えば僕という人間を知るのに体重と身長しか計測していないようなものだ。僕を知るには、胸囲ほか身体のいろいろな部分の測定に加え、走ったときの心拍数やいろいろな指標で計測してはじめてそれなりの輪郭が出るのに、それができない。

一昨日科学者に僕の感知のことを話した。僕の感知が福島発の放射線であることは現在の知見からは認めにくいというので、詳しく話し、科学が想定する低放射線量と僕らが問題にする量との差を話した。少なくとも放射線の危険性に対して、第三のグループがあることは認めて抱けたと思う。

20日: 14:00過ぎ強。
19日: 23:40過ぎから強の下。
17、18日: 上昇したときに時刻は覚えておくのだが、忘れてしまいました。大体1日の20%が強でした。
16日: 10:00前後から強、10:30低下。その後すぐに「強」に戻るも午後軽減。福島第一原子力発電所で汚染水を排出の報を聞く。そのためだろうか。
15日: 23:00頃から強。どうなることかと思うような強さだったが、夜半軽減。台風によるためか?
13日: 17:45過ぎから特に中の上、あるいは強の下になっています。昨日も大体中で推移です。
10日; 昨日の「強」は「中」に軽減したものの、17:00くらいから「強」です。今日のご飯は味がわかりにくくなりそうです。
9日: 13:00前後から「強」です。身体中が包まれている感じです。
8日: 22:00頃から広範囲にわたって、ズンっと上がった感じです。中です。
7日: 午後中の中以上になって、舌がずっとしびれたまま。8日の深夜(眠りについたとき)まで続いていました。強さといい、変化の仕方といい典型的な漏れです。
6日: 中以上にはならないものの、そのギリギリの境界線には達することは何度かあります。9:45現在もそうです。

5日: 中以上にはなりませんでした。それより気になったのは以下。

タンク近くの井戸から汚染水 福島第一、地下水に広がる(朝日新聞) - goo ニュース

以前も書きましたが、僕の感知では、水道水は地下水ではありませんが、水道水の汚染状況はかなり前から空間線量以上に汚染されていました。専門家はきっとわかっていたでしょうし、当然マスコミ関係者も知っているはずだと思ってたけど、その程度の備えでいいのでしょうか。敵を知らなさすぎるのでは?

4日: 13:00から中の下。急激。16:00過ぎ中の上。気をつけて。夜半まで。
2日: 17:10頃からそれまで弱の下から弱の上、あるいは中の下に上がりました。比較的早く消えましたが。

爪と目

2013-09-02 19:06:28 | 文学
芥川賞作家・藤野可織氏が観ていた噂のホラー映画は『ゾンビ革命』(クランクイン!) - goo ニュース

今日は休みだったが、娘の友達とそのお母さんが来るというので、午後から図書館に行った。

最近ある文芸賞に応募しようと小説を書き始めていたので、その構成や資料集めを思いっきり楽しもうと思ったのだ。

が、「文芸春秋」の「芥川賞受賞作全文掲載」につられ、第149回芥川賞受賞作『爪と目』(藤野可織)を読んだ挙句、以下の雑文を書くのに費やしてしまった。

物語は、単身赴任する妻子持ちの男性Aがある女性Bと不倫関係を続けるうち、妻がある寒い日にベランダで変死し、Aが家事と育児をしてくれる女性を必要としてBとの結婚を前提とした同棲をするところか始まる。

AもBも人生自体感性を頼りに選択をつづけてやりすごすこととしか考えていないから、本来なら考えなければならないはずのAの妻が変死した理由を追及しない。

しかしAとBにとって感性的に避けられない問題ではあり、それがAのB相手の不能、Bの、Aの妻のブログを参考にした衝動買いという形で顕れる。

そしてAの娘Cも母の死を気にしているわけだが、その疑問に言葉を充てる以前に考えることさえしない(3歳だから当然かもしれないが)。Bに安物のスナックをあてがわれ、CもAやBのようになおざりかつおざなりな生活を送る。ただし母のことを思い出したくないためにベランダとそこに続く居間は避け、爪を噛むようになる。

つまりAの妻の死が気になるものの正視しようとしない3人それぞれに説明のつかない行動壁が生じるのである。

しかし彼らはやりすごすだけだからその行動壁を止めあうことも注意することもない。いってみればその行動がとめられたときに本物の血が出るわけだが、そのまま放っておく。

しかし事件が起きる。

AがBと性交できなくなって、AもBも愛人をつくるが、Bが愛人Dとの関係を面倒くさくなって終わりにしようと連絡を絶つと、Bの愛人が自宅に押し掛ける。

しかたなくBはCを圧し、居間を通ってベランダに押しやる。Bが、Cの押してはいけないスイッチを押したわけだ。

Cはベランダにいる間ずっとガラス戸を叩き続ける。この抗議は無論明確な意図で行われているわけではなく、本能的に、感性的に、自動的に行われたものだ。

しかし地雷を踏んでしまったことをもちろんBは気づかない。

Bは愛人Dと別れるためにそのアパートを訪れる。が、愛人もきっと感性的に怒りが込みあがったのだろう。Bのコンタクトを舌で奪い、眼球を傷つける。BはCのお迎えに行かなければならないのにコンタクトがなくてよくみえない。

地に足がつかない状態で、更に予想外のことに幼稚園で出くわす。Cが、噛んでのこぎりのようになった爪でほかの園児たちを傷つけたのだ。

いつもは大人しいCがそんなことをしたと知らされても、Bは自分の目のこともあって、Cの触れてはいけないところに触れたことに気づかず、いつものようになおざりに対処しようとする。

爪を噛めないように、マニキュアを塗った。これでかじらないだろうと。

それで安心しそれしかすることのないBはソファーでうとうとするが(確かに目がみえなくなればそうするしかないだろう)、そこへCがBの瞼をこじ開け、自分につけられたマニキュア部分をはがしてBの眼球に張り付けて(ひどい傷がついたことだろう)FIN。

この小説でまず目を引いたのは語りがCによる1人称であること。しかも上記あらすじからも明らかなように最終的にBとCとの(不意な)衝突に集束していくわけだからBを「あなた」と呼んでいる。

BとAとの関係や経歴がCによって語られるのはなかなか斬新だったし、最後にマニキュアの爪を貼り付け、もしかしたら失明させたのではというラストシーンで、「あなた(B) が過ごしてきた時間とこれからあなた(B)が過ごすであろう時間が、一枚のガラス板となってあなた(B) の体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた」というコメントも嘆息させた。主題は、正視とか直視、とかいうことなんだろう。中盤はリアリティのない文もなく退屈なところもあったが、後半からクライマックスまではCの語りが生き、ドキドキしながら読めた。

以下は選考委員の評。昨今ではこういうときにいろいろな見解があるなどというのだが、僕は、主題があって手法の適否、ひいては小説の良し悪しが断じられるべきだと依然考えている。

宮本輝
受賞した藤野可織さんの「爪と目」は、最近珍しい二人称で書かれていて、「あなた」と「わたし」をあえて混同させる方法を織り込んでいる。その方法論に限っては成功しているし、幼い女の子の「わたし」がじつはおとなになってからの視点によることも深読みしなくてもわかる。
だが、私は題にもなっている「爪と目」を使っての最後の場面が、単なるホラー趣味以外の何物でもない気がして首をかしげざるを得なかった。爪と目が、この小説の奥に置こうとしたものの暗喩になりきっていなくて、強くは推せなかった。
女の子の新しい母となる女に恐さがない。猟奇的な女に仕立てないままに、読むほどにうなじの毛が立ってくるような怖さを持たせてほしかったと思う。

小川洋子
 『爪と目』が恐ろしいのは3歳の女の子が「あなた」について語っているという錯覚を、読み手に植え付ける点である。しかも語り口が報告書のように無表情なのだ。弱者であるはずの「わたし」は少しずつ「あなた」を上回る不気味さで彼女を支配し始める。2人がラスト、「あとは大体おなじ」の一行で一つに重なり合う瞬間、些末な日常に走る亀裂に触れたような、快感を覚えた。広い世界へ拡散するでもなく、情緒を掘り下げてゆくのでもない方向にさえ、物語が存在するのを証明して見せた小説である。

島田雅彦
 「爪と目」は成功例の少ない二人称小説としては例外的にうまくいっている。父の愛人と娘の微妙な関係の変容を三歳児の頃から今に至るまでつぶさに観察したその記録なのだが、表向きやさしそうでいて、底意地の悪い愛人を見詰めるまなざしの物語と言ってもいい。語り手は成長するにつれ、愛人との関係を書き換えてゆく。ストーカーのように相手をじっと見つめるその目は、彼女のことを理解し、彼女に似てくる自分にも向けられている。これは父の愛人を介して描いた自画像でもあったのだ。これは文句なく、藤野可織の最高傑作である。

堀江敏幸
 冒頭の一文のねじれの余韻が、「わたしは三歳の女の子だった」という過去形を、語りの現在の土俵へと引き上げる。読者はその眩暈の中で、謎めいた母の死の後にやってきた「あなた」との砂を噛むようなやりとりに、緊張感を持って向き合うことになる。「わたし」は「あなた」との、書かれていない「その後」の対話を通じて知らない時間を生きなおし、「あなた」の半生を描くと同時に自伝をも書いているのだ。視力の弱い「あなた」の目に異物を装着する結末に吹く風は、繊細な手法とは裏腹な平明さで、過去と未来を同一線上に繋いでくれる。不透明なのに澄み切ったその線の矛盾の手触り。「わたし」と「あなた」のあいだにある聞こえていない声の帯域に、読者としての私は深く入り込んでいた。

川上弘美
 ていねいという言葉をこの小説を読んでいる間中思っていました。周到ではなく、丁寧です。その丁寧さは、小説というものに対する情愛から来るのだと思います。まだほんの少し、不自由な感じはするのです。でもきっと、更に書いているうちに、表したいことをもっともっと自在に編み込めるようになってゆく作者だと思います。

山田詠美
 韓国ホラー映画の『箪笥』を思わせる不気味な面白さ。どうせなら、もっとサイコホラーよりに徹して、小説にしかできない技を駆使して展開させていたら、映画を連想させることなどない、言葉による、そこはかとない恐怖に覆われた魅力が出たと思う。

村上 龍
 意匠をこらすというのは、リアリズムからの意図的な逸脱ということだ。物語の進行に置いて時間と空間をシャッフルする、一人称や三人称ではなく二人称を多用して書く、「語りかけ」を文章にして、かつ章ごとに文体も変える、そういった方法であり、程度の差はあるが、読む側は戸惑いと負荷を覚える。

奥泉 光
 二人称小説は時折見かけるが成功した作品は少ない。そんななか本作は、三歳の少女である「わたし」と、義母となった「あなた」との、さして長くない時間の出来事が描かれるのだけれど、主人公を「あなた」の二人称にせっていすることで、その後の母娘の長い時間にわたる関係の濃密さを予感させ、小説世界に奥行きを与えることに成功している。筋立てにややわかりにくい部分があり、ことにラストのイメージが不鮮明であるなどの疵はあるとは思ったけれど、方法の貫徹ぶりを評価し、受賞に推す声に賛成した。