満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

PABLOが沁みた夜 ~皮膚病との暗闘4か月~

2020-07-10 | 新規投稿

テレビ・マスコミ・ウィルス汚染拡大による緊急事態宣言と自粛要請期間はちょうど、私の闘病生活の始まりと重なった。とても仕事に行ける状態ではなかった私は偶然にも4月10日に失職し、一週間のファスティング(断食)と継続的な食事療法に専念できたのだが、大阪府の自粛要請が止むであろうと予測した5月末には体調を回復させ、仕事を再開しようという目論みだった。しかし病状は一進一退を繰り返し、中々、改善の兆しが見えぬ泥沼に入りつつあった。出口の見えない状況で家から殆ど出ない生活を送る中、世間を席捲する‘武漢コロナ’に関する各種情報を得る日常になっていたと思う。

隠遁的生活。体重が10㎏減る事で体力が減退し、声までも擦れたように変化する肉体の変化はきつく、プチ地獄といった様相の中、痒み、痛み、倦怠、無気力、不眠などの諸症状に耐える生活であった。私は重度アトピーにあった。仕事関係の知人と電話した際、「アトピー?なんや、肺炎か癌とかじゃないかと心配したわ」と拍子抜けと言わんばかりの反応だったが、確かに私は何故か蒋介石の「(中国大陸における)日本軍は皮膚病で共産党軍は癌細胞」という言葉を思い出していた。命取りになりかねない癌細胞に対し、皮膚病は生命を脅かす事はなく、大した問題じゃない事を比喩的に言ったものだが、しかし皮膚病も罹ってみたら実際、恐ろしいものだ。この苦しみは相当に堪えがたい。もう治らないのではないかと絶望的な気分になった事もこの間、何度かあった(実際、完治は未だ遠い)。先ほどの知人には先刻、会った際に私の症状がピーク時の写真を見せたらのけぞっていた事も確かで、内臓疾患の苦しみとは別の外見的苦しみは人目を避け、内向的にならざるを得ないという、一種、精神的鬱の常態を作り出すハードな状況でもあった。自粛期間は世間が死の街と化していたので、いわば、それに紛れる事ができたのだが、当時の私の状態で、逆に通常の世の中なら私は、精神的に倍、落ち込んでいたであろう事は想像に難くない。

思い起こせば異変が起こったのは昨年の夏。顔が赤くむくみ、右手の甲の痒みを掻くうちに無数の切り傷ができるというまるで清朝の‘百刻みの刑’のような状態になる。グーもできないくらい痛む。やがて手首に黒い突起のような大きめのイボのようなものができ、この時点で私が嘗て20代後半から30代初めの頃、襲われたアトピー性皮膚炎と違う新たな症状と見てとった。この25年ほど何事もなく、アトピーはすっかり過去のものと思っていた私の新たな異変の始まりである。20代の私がアトピーになった時、あらゆる医者に通っても治らず、最後に訪れた土佐清水病院という保険適応外の病院でそれまでの苦労がまるで嘘だったようにすぐ直ってしまった事で、苦しみから解放された経験をしていた。以後、たまに発疹したら同医院の軟膏を塗布すれば治り、副作用もないという事で、基本的に保湿をしていれば良いという生活を25年以上、続けてきた。たまに街でアトピーの人を見かけたら同情したり、心の中で応援したり、喋るきっかけがある時など、土佐清水病院を教えたことも何度かあったくらいだった。それが今回、もはや他人事ではなくなった。

久しぶりに同医院で処方された軟膏で治療を試みたが、なぜか治らない。その時の私の焦りは大きかった。つまり、アトピ-は別名、‘奇妙な病気’と意味され、ステロイドを出すだけの通常の皮膚科の医者では治らないというのが常識になっている。そればかりか皮膚科はアトピーを悪化させる副作用の地獄が待っているというのが、この病気にかかった事がある人間の共通認識になっているのである。つまり私にとって土佐清水は最後の命綱であり、ここでの処方箋が効かなければ、他ではもはや効くわけもなく、諦めざるを得ないというレベルで信頼している医院でもあったのである。土佐清水でも治らない。これは一体。

そんな中、私は決定的な過ちを犯す。明らかに顔が腫れあがった私が仕事中にすれ違った見知らぬ人から「アトピーですね。今、いい薬、開発され、これで治りますよ」と自分の体験談をもとに親切心から、ある治療法を教えられる。デュピクセントという注射による治療らしいが、危険だとうすうす感じながらも藁をもすがる気持ちで、私はその皮膚科を訪れたのが昨年の10月。そこの医師からは「デュピクセントは高額ですし、普通の治療で治ります」と告げられ、ステロイド軟膏と錠剤を処方される。嘗て20代の頃、あれほど痛い目にあわされたステロイドを再び使用する。ただ、そこで処方された錠剤の効きがよく、私はその時点で盲目になってしまったと思う。服用は6週間だけというその錠剤は私を一時的に元に戻し、ライブ活動など、これまでと変わりなくこなしていた。しかしやがて薬が効かなくなり、更に顔や手に塗布した軟膏の副作用が出始める。わかっていた事だったと後悔しても手遅れだった。塗った箇所だけがくっきりと判別できるくらい、赤くなり、知人からゴーグルの日焼け跡のようだと言われる始末。馬鹿だった。私は過信し、妄想したのだ。つまりステロイドの危険を体験した30年前と違い、現在は薬もそれなりに進歩しているのではないか。副作用の研究なども進み、技術が更新されているのではないか。そういえば当時は全国から患者が押し寄せるように来院していた土佐清水も近年はそれほどの混雑はしていないではないか。つまり医学の技術もレベルが上がり、土佐清水もワンオブゼムになっているのだろう。私は勝手にそう解釈し、その町医者の処方箋に頼ってしまったのだった。町医者はNG。アトピーに関するこの法則はやはり生きていたのだ。症状はひどくなり、私は通院を辞めた。デュピクセントなど、もっての外だった。そこからが闘いの始まりであった。

去る3月9日と10日の東京でのライブの時点で、かなり私の状態は悪かった。顔が赤く、熱く、やや、ボーッとした状態ではあったが、9日のバーイッシーでのライブ(with 荻野やすよしg、臼井康浩g、 石原雄治ds、各氏とのセッション )は充実し、とても気分よくホテルに戻ったのだが、翌日はその日のライブ会場である‘なってるハウス’の入り時間まで、ベッドに横たわってじっとしていた。体のだるさが顕著で動きたくなかった。臼井康浩g、藤掛正隆ds、両氏との演奏。しかもゲストに武田理沙さん(p、synthe)も呼んでいる。私にとって東京での大事な自主企画ライブであり、少しでも体力を温存しておきたかった。顔の赤みはやや、後退していたが、火照りがあり、やはり頭がボーっとしていた。そんな状態の中、気力を振り絞って臨んだのが‘なってるハウス’でのライブだった。お客さんも多数集まり、ライブは首尾よく終了したが、私はヘトヘトに疲れていた。

大阪に戻った私は3月14日にON AIR L7でマジカル・パワーマコg、松元隆ds両氏とのトリオ、20日はfuturo caféで登敬三sax、藤掛正隆ds、横沢道治per各氏とのカルテットとライブを続けていたが、いずれもウィルス騒ぎでお客さんは少ないながら充実のライブだったが私の症状は悪化してきたと思う。futuro café に来ていただいた森田雅章氏(トラディショナル・スピーチ)から「宮本さん、顔赤いのはスキー焼けですか?」と尋ねられ、もはや限界、何とかしなければと新たな治療をネット等で模索し始めたのである。

この間、4月のライブ予定は7件、あったのだが、ウィルス騒動の中、ライブハウス側のインフォメーションも含め、全てが中止になる。私は残念を表明していたが、内心ではほっとしていた。とてもライブができる状態ではなかった。3月25日の京都アニーズカフェ(with マジカル・パワーマコ、松元隆, 沢田穣治、各氏との即席セッション)、29日の神戸ヘラバラウンジ(トラディショナルスピーチに客演)での演奏を何とかこなし、日程を一旦、終了した。

自律神経の乱れが皮膚病の原因というネットでの情報を知り、その回復を図る整体がある事を聞く。私はその整骨院を訪れ、「半年で直します」という先生の言葉にまたしても藁をもすがる思いで従う。そしてその先生に「一日二食、腹八分目の食事に変えてください」と告げられる。訝しむ私に対し「腸が疲れ切っており、休ませないといけない」と説明した。腸と皮膚の関係など、全く度外視していた私にとってこの説明は驚きであり、自宅で調べると、ネットで同様の論説が山のようにでてくる。

食事とアトピーの関係性はアレルギーの観点でのみ認識していた私にとって、腸内での働き、即ち消化、吸収、再生のメカニズムが肝心である事がもはや常識となっていた事は青天の霹靂であり、迂闊でもあった。あまり従ってはいなかったが、肉類を避け、和食をなるべく取るなどの意識しか持ち合わせてはいなかった。

実は私は一日3.5食をきっちり食べる隠れ大食漢で、一種の空腹恐怖症であった。食べ物が消化しきる前に次のものを胃に運ぶ。それが日常であり、具体的には必ず夕方にボリュームあるパンや麺類などの炭水化物を食べるのは当たり前で、下手をすると夜中もなにか食べている。ライブの時もリハが終われば、必ず本番前に腹ごしらえし、夜中にまたたっぷり食べないと気が済まない。スポーツクラブに行く際は特に空腹でもないのに、運動中、万が一、腹が減っては力が出ないと、何かを食べてからクラブに行くような始末。このような習慣を大げさに言えば20年以上続けてきた。ガンガン食べて、筋トレもする。そうやって私の元気や健康は保たれてきた。そしてそれは見せかけの健康だった。腸の悲鳴に耳を貸さなかった。そういえば長らく便秘気味でもあり、しかし、それは大した問題ではないと恐るべき勘違いをして放置し、過ごしていた。

手首に現れた突起の様な吹き出物。腸壁に穴が開くリーキーガット症候群から起こった体内毒素の皮膚からの放出が私の症状の正体であった。体はとうに悲鳴を上げていたのだ。その事に気が付くのに遅すぎたようだ。

整体師の言葉はわたしに意識改革をもたらせた。食べていいもの悪いもの以前に、食べる量が問題であった。いくら食べても全く太らない私の特異体質がその悪習慣を助長させた。

私のリハビリは始まった。一日2食。具体的には朝飯を抜くことで空腹時間を12時間以上、つくり、腸の休息を図る。更には間食も止め、余分なものを体内に入れない。デトックス効果を第一の目標にし、皮膚への改善を目指した。そして学習を深める中、ファスティングはもはや必至という結論に至る。断食である。

朝飯を抜くことで、みるみるうちに痩せるのが実感でき、4月20日1週間のファスティングに入ると、無残なほどの減量に見舞われる。同時に体内の毒素が一気に皮膚に放出された。顔が真っ赤になり、やがて粉を吹く。恐ろしいくらいの強烈な痒みが襲う。首から上の皮膚の水分が全く無くなり、砂漠のような状態になる。額は硬くなり、コンクリートのようにカチカチである。掻くと体液が吹き出し、それが乾燥すると瘡蓋になる。このパターンが断食終了後も1か月続いた。大きな瘡蓋はやがて落屑された細かい皮膚の粉になり、部屋もベッドも粉だらけになる。私の一日は部屋の掃除から始まっていた。

私の変化に中二の息子は動揺していた。私宛の郵便物を渡してくれる時なども私の顔を見ないように目を背けていた。血の滲んだ瘡蓋に覆われた私の顔を正視できないようだった。息子は高校生の姉と二人でいつも家でゴロゴロしていた。学校の理不尽な休校と外出も自粛という状況では致し方あるまい。私が元気ならキャッチボールなどしたいところだが、それも叶わず、私も家でじっとしている日々。一人、家内だけが、仕事で外出し、帰ると夕食の支度と忙しそうにしているのが4月、5月の日常だった。私は情けないほどじっとしていた。もはや動くのがつらい。皮膚がつっぱる状態で体の動作そのものが億劫になるのである。

時折り、襲われる凄まじい痒みに備え、私は常に傍らに保冷材を3つ、置いていた。発作が起こると、保冷剤を思い切り、患部に押し当て、冷やすのである。なるべく掻かないようにする為だが、それでも間に合わないありさまだ。ある時、同じように手の甲に保冷材を押し当て、傷口から雑菌が入ったようで緑色の膿ができ、針を刺してそれを出すという痛い治療を受ける羽目に。もはや、散々である。

痒みのせいで毎日、朝方まで眠れない。仮に眠ったとしても必ず、痒みに見舞われ、起こされる。特に2時から4時の間が危険の時刻である。この時間に必ず、一回は強烈な痒みが襲ってくる。これは副交感神経が働く時間帯だからであるが、思えば、そもそも私は夜型でしかも音楽を聴いたり、本を読んだりするので、神経は昂り、普段から、いわゆる交感神経優位の体質であった。これがそもそもいけない。こういった長年の生活習慣の蓄積は私を蝕んできたと言えよう。4月と5月の丸二か月、私は隠遁的生活を送った。誰にも会わなかったし、会えなかった。日中、時折り、散歩に出かけるが、体重が10㎏減った身体では疲れやすく、明らかにスタミナが無くなった。家に戻るとヘトヘトで倒れ込むように横になる。

鏡に映す自分の顔と体は目をそむけたくなるようなやせ衰えた体躯で、情けない。顔は一時、目がくぼみ、細くなっていた時さえあった。朝、顔を洗うとき、何か目の感触がおかしいなと鏡を覗き込むと二重瞼が消え失せ、一重になった他人がいた。目が変わると顔つきが変わる。全く私ではない人物のようだった。背骨が浮き出て、触るとはっきりと頸椎の一番目から腰椎の五番目まで指で確認できる。一番情けないのは尻から大腿部の筋肉がすっかり抜け落ちてしまった事だ。私は自分の太い足が好きだったし、筋トレも太ももと脹脛を重視していた。今では腰骨がはっきり見えるくらい、痩せてしまい、以前の体型の見る影もない。65㎏あった体重が55㎏になる。これは見た目もやつれ感があるが、体に踏ん張りが効かず、パワーと生気が減退したのを如実に感じる事となった。

深夜の2時頃に来襲する痒みを避ける為、私はいつしか4時ごろまでベッドに行かない作戦をとっていた。つまり寝ないでずっと起きておくことで、ふいに襲われるのを防ごうとしたのである。その間、私はひたすら音楽を聴き続け、本を読んだ。プレイヤーにレコードをセットするのも億劫になるくらい虚脱感と倦怠感があるのだが、ゆっくりとした動きで私はCDとLPを毎晩、聴き続けた。そもそも日中もずっと部屋に閉じこもって何かを聴いてるので本当に一日中、音楽を聴いていた事になる。

弱っている時に聴く音楽は心の奥底まで響く。私は50枚ほどあるピアソラのCDを順番に全て聴いていた。ピアソラの含蓄あるメロディの雄弁さ、音の響きを確認し、一音一音を噛みしめるように耳をそばだてていたと思う。するとピアソラの中のそれまであまり好んで聴かなかったアルバムの良さがわかってきた。即ち、「viaje de bodas(新婚旅行)」「WOE」等、普段はスルーしていたアルバムの楽曲に浮遊するメロディの音響的断片を発見したと思う。ピアソラと言えば明確なメロディの普遍性、その誰をも納得させるパワーフレーズの力学めいたものが魅力だった。従って代表的な曲があまりにも目立ってしまい、例えばアルバムの中にある佳曲らしきものが今一つなものとして埋没してしまうと感じる錯覚を引き起こすほどのいわば、メロディの大家であると感じてきた。しかし私は今回、真夜中にピアソラを聴き続ける事で別の魅力を知ったのだろう。それはいわばピアソラ楽曲に潜む一瞬の断片的メロディと音響的魅力である。ピアソラの晩年のキップハンラハン制作の3部作「tango zero hour」「la camorra」「the rough dancer and the cyclical night」の中の普段、スルーする事の多い「the rough dancer」の魅力を再認識したのも大きかった。何と素晴らしいアルバムだろう。「tango zero hour」ばかりが傑作ともてはやされる世間の評価軸に知らず知らず私も同調していなかったか。「the rough dancer」にあるpiazzolla play piazzollaという側面のマイナス要素を打ち消すのが、やはり一瞬のフレーズの演奏性の美学めいたものであると感じた。例えば3曲目の「street tango」の主旋律の繰り返しの中にフック的要素として光るフレーズが20秒ほど(01:55~2:15)あり、この瞬間の方が、Aメロより深い印象を私に与える。そしてこのフレーズが6曲目の「leonora’s song」にも唐突に現れるのだ。本来ならこのフレーズをもっと長く伸ばして、一つの主旋律として構築してもよさそうだが、ピアソラはそうせず、いわば瞬間的な泡沫の美学として提示している。私は深夜の3時に聴くこのメロディに打ちのめされたかもしれない。この複雑さの無い、どちらかと言えば単純なフレーズがこうも心に響くとは。

そして先述した「viaje de bodas(新婚旅行)」「WOE」等、普段はスルーしていたアルバムにも同様の瞬間が所々に散見され、そのフレーズやリズムの持つ一瞬の輝きが次のフレーズやリズムが始まった時間に交差するのを感じていた。ピアソラ楽曲に常套的な様式であるA,B,C,Dと違うフレーズが惜しみなく繋がるように現れる曲調にあるマジックとはメロディを並列に配置するのではなく、いわば交差させながら進む事で各々の余韻が次の場面を侵食しながら味わい深くさせる高度なものだと思ったのである。

そしてこの質感を持つアーティストとして私はもう一人、オーガスタス・パブロをふいに思いつき、パブロのレコード、CDを久しぶりに順に聴いた。持っていないものもyou tubeで検索して聴いていた。偶然の発見などと大げさに言うつもりはないが、パブロの正に空中に漂うばかりのメロディの散布のような音楽とピアソラの中に一部、あるメロディのショートアクセント的な奏法が私の中で一致を見た。単純にバンドネオン(ピアソラ)とメロディカ(パブロ)の音色の類似という見方もあるだろう。しかしそれ以上に両者の精霊のような旋律的な美しさが共通の質感をもって私を感動させた。ピアソラにある瞬間的フレーズを繰り出しながら前後に交差する感覚をパブロは言うまでもなくDUBでやっている。

沁みた。

私はパブロを熱心に聴いていた頃を想い出し、ただ、それは決して様々なDUBに熱中した延長線ではなく、何か精神的な充足を求める渇きから発せられる要望だった事を改めて思い出していた。40代以降の私のある程度、満ち足りた状態での生活ではない、もがき、悩んでいた頃、彷徨の20~30代にパブロを求めていた私と同様のシチュエイションにある現在の自分にオーガスタス・パブロは再び、降りてきたと思う。今、正に弱っている自分の救いのような音楽だった。ヘッドホンを装着すると耳が痒くなるので、極力、スピーカーで小さい音量で聴いていた。真夜中に微音で聴くオーガスタス・パブロ。楽園へのいざないのような美しい音楽だった。長い間、苦しんだという重症筋無力症という珍しい病気でパブロが亡くなったのは1999年。45歳という若さだった。ニュースを知ったとき、病気の事は知らなかったので、驚きであった。

4時ごろに寝床に入る生活は5月末まで続いた。丸二か月間そんな毎日だった。夜になるのが恐い。そんな強迫心理もあったと思う。痒みが襲う恐怖との闘いの日々。4時に眠り、9時ごろ起きる。用心してもやはり、眠りながら顔を掻きむしっており、朝起きたら、体液がべったり、顔に張り付いている。そんな不快指数120%の日々だった。そんな出口のない感じの日々が、いつしか、若干、痒みが軽減され、1時くらいに寝れるようになった時、初めて保冷材を傍らに置くのを止めることができた。

以後、私の症状は一進一退を繰り返し、6月から仕事をぼちぼち再開している。それでも週に3日が限界で回復半ばという状態である。相変わらず、皮膚は乾燥し、赤く腫れ、顔は粉を吹いている。日によって若干、顔色が赤みが失せるときがあるが、それは常に一時的なもので、すぐ戻ってしまう。私は覚悟を決めた。これはたぶん、3.4年かけたリハビリになる。いや、もっとかもしれない。

音楽を聴き、楽器に触らない日々。こんな生活は思い起こせば久しぶりだ。オーガスタス・パブロが亡くなった1999年、バンド活動を何故か止めてしまい、その後、8年ほど、私はベースのケースを開けなかった。そして久しぶりのライブを2009年の暮れに行い、以来、ずっとハイペースに活動をしてきた。レーベルの活動も並行して行い、充実の日々だったであろう。

今般、多くの有名無名のミュージシャンや表現者がテレビマスコミ・ウィルスの災いで活動の縮小を余儀なくされているが、6月に入り、徐々に活動を再開させているようで嬉しい。私もぼちぼち活動を再開させていくつもりだ。自主企画を連発する以前のパワーは今、無いので、とりあえず、オファーされたライブの中から出演していきたい。ただし、体調がその日によって変わり、まだ完治まで程遠い状態には変わらないので、ペース配分しながら周囲の人に迷惑をかけないよう、心掛けなくてはならないだろう。

5月半ばくらいからこの間、ライブのオファーは何件かあったが、いくつかを断り、7月末から予定を入れている。今月15日にはあの‘なってるハウス’での音源をCD作品にしたニューアルバムがリリースされる。あの日、臼井康浩(g)、藤掛正隆(ds)、両氏との演奏は一日限りのセッションとして企画し、対バンとして武田理沙(p.synthe)さんに声をかけて実現したものだった。折角なのでという事で武田さんにもセッションに加わっていただき、それらの音源を藤掛氏主宰フルデザインレコードのエンジニアである寺部孝規氏が8トラックで録音したのだった。その音、演奏が良いと判断した私がCD化を思いつき、急ぎ、制作したのが「SCATTER ELECTRONS with RISA TAKEDA」(jigen021)である。

7月15日のリリース。この日は私の誕生日でもあるので、‘再生の日’と位置付け、音楽活動を焦らず、やっていきたい。

2020.7.10

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