満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Dawn of Midi 『First』

2010-10-18 | 新規投稿


去る10月10日、Dawn of Midiのレコ発ツアーの大阪公演に私のバンドtime strings travellersが共演させていただき、そのファーストアルバムである『First』を彼等自身から買った。私が興味を持ったのは事前にyou tubeでチェックした音楽と全く違う演奏を眼前で繰り広げる同バンドの多様性であっただろう。そしてこのCDの内容もまた、そのいずれとも違う音楽性なのではないかという予感。果たしてそれは的中した。つまり、you tubeにアップされた演奏ではヨーロッパフリーに近い即興に肉体性を加味したようなインナージャズの様相であり、対し、10日のライブではそれと全く音楽性を異にする反復性フリーミュージック、つまりミニマリズムを徹底させた構築性とインプロヴィゼーションを併走させる個性的な音楽性を展開していた。更に家に帰ってから聴いたこのCD作品ではアンビエントな音響系フリーがジャズ寄りのフォーマットに接近しながら離れようとするかのような静謐で濃密な演奏が収められている。つまり、私が体験したDawn of Midiの音楽はその全てが違う音楽であった。おそらくこのグループは音楽形式のパターン化を拒み、演奏とコンポジション、即興の相互間を侵食している。従って毎夜、違う演奏をしているのだろう。私はそれを強く感じた。

Dawn of Midiのファーストアルバム『First』は一見、ECMにある澄み切った空気感に共通する音の響きを持っている。が、それはピアノトリオの録音にありがちなリバーブを効かせたホール感覚が先行した故の錯覚であった。その音世界はむしろ多湿である。そして多分にエスニックな感性が鋭く見え隠れする。ただ、それをメンバーの出身地であるモロッコやパキスタンというルーツアイデンティティーには求めまい。収められた各曲に共通する楽器間のバランスの独自性は従来のピアノジャズの定型を無視している。ピアノ、ベース、ドラムという配置が何か違うインストュルメントに置き換えられても違和感はない。
民族楽器にすり替えられても気付かない。そんな音楽性だ。更に3つの楽器がポジションを移動しながら奏でられるような聞こえ方をするのはDawn of Midiにある意識下にある非―ジャズ的本性の顕れか。それをメンバーのルーツアイデンティティーをも凌駕するそのグローバル感覚、越境性と言えば安易な感想かもしれない。今や音楽のジャンルが一定のエスニシティから表出される汎ルーツ性は崩壊している。(日本人だってタンゴを演奏するし、黒人の演歌歌手さえいる)ニューヨークを活動拠点とする異邦人トリオ、Dawn of Midiのグローバリズムはむしろジャズ以降の音楽シーンに於けるあらゆる先端性の時間的往来が音に反映されている感覚に拠るものだと思う。ポストモダン色は濃厚で、エスニックでありながら人工的な感触やアコースティック編成でありながら微妙なエレクトロニクスの混入的音響にゼロ年代的なサウンド処理と旧来のチェンバー感覚の交差も感じ取れる。

さらにテクニックがありながらそれがなさそうにもきこえる点から喚起されるのは、アンチテクニックな過激主義ではなく、歴史性と反歴史性の往来であり、それは真のニュートラルな感性である。
私達はジャズピアノをある見えない権威主義の統制下の元で聴く事を間逃れていなかった。ピアノを聴くにはその楽理や技術的なカテゴリーを一定程度、理解していなければ真に味わう事ができないという敷居の高さを感じ、従ってそれを無効化する格闘に近い感性で対峙してきたのではなかったか。その意味で私にとって菊地雅章は最大の‘味方’であったかもしれない。多くの‘理解しなくてもいい。感じるままでいいんだ’というプレイヤーの‘白々しい’メッセージはピアノという特権的ポジションに根差された演奏者優位性でしかなかった。そしてそんな片務的娯楽性とでもいうべき数多のジャズを象徴するのが多くのピアノミュージックであると私は感じていた。
例えば先述したECMに顕在化されるレーベルカラーはその独自性ながらも、ある一定の閉鎖的な音響に収斂されるパターン化されたジャズ解釈という音像しかもはや感受できないまでに‘聴く前に既にイメージできる’CD作品しか提供しないようになった。菊地雅章がECMからリリースするというニュースに喜びながらもどこか警戒心を抱かざるを得ないのは、そのレーベルカラーに閉じた音楽をイメージする事のマイナス要素を予感するからあっただろう。

Dawn of Midiに対する好感は技術者が技術を放棄しながらその技術に相当する物語的創造を成すような感動であろう。これこそが‘感じるままでいい’ピアノミュージックの新形態だ。私が目撃したライブ演奏はこのCD『First』とはまるで違う演奏をしたが、その反復の‘堪え性’は凄かった。ベーシストは左手のポジションを何十分もの間、固定し、弾く手のみをじわじわと変化させていた。演奏者というのは本能的にもっと動かしたい筈なのだ。しかしDawn of Midiはまるで3人が我慢比べをするような反復演奏を行った。まるでスティーブライヒのミニマルミュージックを‘生演奏’するような自己制御を課しながら、そこに音像のバリエを付加させていたのだ。そして即興の奔放さとどこか一点へ向かう創造を同居させた稀有の演奏でもあっただろう。

久しぶりのブログ更新となりました。
バンドのライブ活動やCD制作の為の編集作業に没頭していて、文字を書くモードチェンジになれなかったのですが、今回をきっかけに以後、音楽批評を再開する予定です。

2010.10.18


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする