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非日常体験

2006年08月04日 | メンタル・ヘルス

 四国の大学での夏期集中授業を終え、帰りの新幹線の中です。

 5日連続朝から午後3時までしゃべりっぱなし、ホテルに帰って、汗まみれになったものを洗濯して、シャワーを浴び、少し休んで夕飯を済ませたら、レポートの採点。

 ただそれだけで、余分なことをしたり考えたりする暇なし。

 これは、シンプルで、けっこういい非日常体験でした。

 コスモロジーの話に感動して涙を流してくれた女子学生もいました。

 13名のうち、男子2名、女子2名がスケール10の大変化を報告してくれました。

 約30%、これまでの平均25%よりも高い率です。

 しかし、ほとんど理解できなかった、心に響かなかった子もいたようで、今後の課題も残っているな、と改めて感じています。


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善通寺にて

2006年07月31日 | メンタル・ヘルス

 昨日から大学の夏期集中授業で来ています。

 瀬戸内海は猛烈な暑さですが、そこで生まれ育った人間にはある種懐しい暑さです。

 歩いているとくらくらしそうなほどの強烈な日射し、白い砂地の道のたまらない照り返し、クマゼミがジャンジャンジャン…と鳴きしきっています。

 空海の生誕の地とされる寺には、空海の生まれた頃からあったという楠の大木がいまなお青々と繁って、夏の激しい日射しをものともせず、葉をきらきらと輝かせています。

 五重の塔は青空の下、悠然と立っていました。

 今日の授業は近代のニヒリズムの話まで、明日からコスモロジーの話をします。

 受講生は11名、22の瞳ですが、これからいくつの瞳が輝やき始めるでしょう。

 一昨年輝いた瞳の女子学生が母校の事務職についていて、用事で事務室に行ったら、さっと気をきかせてコーヒーを入れてくれました。

 とてもいい感じでした。

 また明日、(私としては)早起きしなければなりません。

 では、みなさんおやすみなさい。

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コスモロジー教育の効果、改めて実証

2006年07月20日 | メンタル・ヘルス

 2大学計3学部の授業がすべて終わりました。

 前期末のアンケートの最後の質問項目「授業をうけたことによって、人生観・世界観にプラスの変化があったと感じていますか」に対して、以下のような答えがいくつもあがってきました。

 コスモロジー教育=コスモス・セラピーの臨床効果としては例年のとおり確認された、ということですが、やはり改めて教えてよかったと喜んでいます。


 この授業は人間を変える力を持っています。 (3年男)

 超ネガティブ人間の私が人生をわくわくしながら楽しめていることに自分でびっくりです。そのくらい人生について考え方が劇的に変われました。
 今の方が楽しいです。どうもありがとうございました。 (3年女)

 これからもこのような授業が増えていけば、もっともっと多くの人たちが幸せになり、そして生きていく意味を考えることができると思います。 (3年男)

 人生観が変わった。 (2年男)

 自分の存在を肯定的にとらえることができてうれしいです。 (2年女)

 他の講義にはない「認識」や「考え方」を学べる授業で毎回新しい発見がありました。授業も工夫されていて飽きることがありませんでした。何よりもこの授業のおかげで新しい前向きな考え方ができるようになったと思います。 (4年男)

 8くらいプラス。誰かに伝えたい。 (4年女)

 プラスもプラス。でもたまにへこむから、そういった時は、この授業を思い出す。 (3年女)

 こんな風に人生をとらえることはなかったです。新しい出会いに感謝します。 (4年女)



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休む時は徹底的に休むこと

2006年06月26日 | メンタル・ヘルス

 坐禅の入門的な教えの古典である『坐禅儀(ざぜんぎ)』の冒頭に、以下のような言葉があります。

 夫れ般若を学ぶ菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓の願を発し、精しく三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべきのみ。

 (それ はんにゃを まなぶ ぼさつは まず まさに だいひしんを おこし ぐぜいの がんを おこし くわしく さんまいを しゅうし ちかって しゅじょうを どし いっしんの ために ひとり げだつを もとめざるべきのみ)

 乃ち、諸縁を放捨し、万事を休息せよ。

 (すなわち しょえんを ほうしゃし ばんじを きゅうそくせよ)

 訳

 そもそも覚りの智慧を学ぼうとする者は、まず何よりも大悲の心を起こし、弘大な願を立て、心を込めて禅定を修行し、すべての生命あるものを救うことを誓うべきで、自分一人のために解脱を求めてはならない。

 そこで、さまざまな関わり合いをいったん忘れ去り、あらゆる事を休みなさい。


 ここでとても興味深く、かつ的確だと思うのは、最初に「大悲心」とか「弘誓の願」とか「誓って衆生を度し」とか「一身の為に独り解脱を求めざるべきのみ」と、くどいほどに、生きとし生けるものすべてを救うための修行でなければならないと強調しておきながら、実践の第一歩には、「諸縁を放捨し、万事を休息せよ」といっていることです。

 あらゆる生き物を救うなど、短期間でできるわけはありません。

 きわめて長い時間がかかります。

 それも、大乗仏教が興ってからでももう2千年くらい経っていますが、いまだに人類だけでも何億、何十億の人が苦しんでいます。

 人類の歴史の中での菩薩の仕事は、無限に近い長丁場です。

 あせって激しくやってしまうと、すぐにダウンして使い物にならなくなります。

 信じられないほど気長に持続する必要があるのです。

 長続きするためには、心を安らかにする時は、徹底的にあらゆる縁・関わりを〔心理的に〕放り出し、すべての仕事を休め、というのです。

 長期戦を戦い抜くには、休む時、休める時には、徹底的に休んでおく必要があります。

 ……というわけで、私も、今日は朝からほとんど何も仕事らしい仕事はしませんでした。

 ブログもこれから休む時は休もうと思っていたのですが、夜になってようやく少し体力が回復してきたら、一種の癖になっているんでしょう、またちょっとだけ書きたくなりました。

 (こういうのをカルマ・業というんでしょうね。)

 ともかく、お互い、休む時、休める時には、すべてを忘れて休みましょう。

 では、お休みなさい。



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無限の世界に入る:無住処涅槃の話2

2006年06月21日 | メンタル・ヘルス





 大乗仏教の究極の目的である覚りとは、宇宙の本質である「空」ということに心の奥底まで目覚めるということでした。

 そして「空」というのは「一如」と同義語で、宇宙のすべてのものは一体であるということでもありました。

 大乗仏教の修行者たち=菩薩は、徹底的な禅定の実践の結果、徹底的な無分別の智慧に到りました。

 そうすると、それまで損と得、幸福と不幸、善と悪、汚染と清浄、生と死というふうに分別していたこともすべて無分別=一体であることが見えてきたのです。

 宇宙では、善と悪、汚染と清浄というふうな相対的な区別はできても、絶対的には分離しておらず、一体です。

 大乗仏教では、そういう汚染と清浄という人間的な分別を超えた宇宙の本質を、あえてもともと絶対的に汚れを離れている、汚れや悪という意味での煩悩は本来的には空であるという意味で、「本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)」と捉えています。

 この本来清浄涅槃というところから見ると、私たちの体や心も「本来清浄」です。

 そこでは、煩悩の依りどころである体が残っているとか残っていないとかという問題は超えられてしまいます。

 「体があるままで本来清浄である」という宇宙的事実の発見が、それまでの小乗仏教に対する大乗仏教の決定的なポイントだといっていいでしょう。

 無分別智的に見れば、体も心も含んだ自分もまたそのまま一つの宇宙の一部です。

 さらに大乗仏教の菩薩たちは、無常なるこの身心の自分がそのまま宇宙と一体なのならば、この身心よりもむしろ宇宙そのものを「自己」と捉えるべきだと考えました。

 英語で表現すれば、小文字で始まるselfではなく大文字で始まるSelfこそ本当の自分だということです。

 こういう驚くべき深い境地に立った大乗の菩薩たちは、衆生すなわちすべての生きとし生けるものの輪廻ということに関しても、それまでとはまったくといってもいいほど違った考え方をするようになりました。

 この身心に限定された自分というのは確かに生まれて死ぬものですが、宇宙としての自己は時間と空間と物質をすべて包んで超える存在です。

 そういう大きな自己と、その1部としての特定の身心を持ったこの「私」との関係は、区別はできても分離できないものです。

 そして他の人と私の関係も、同じ1つの宇宙のあの部分とこの部分というふうに区別はできても分離できないものです。

 そうすると、他の人の喜びは私の喜び、他の人の苦しみは私の苦しみということになります。

 特にこの世は四苦八苦という苦しみの世ですから、多くの人がいろいろに苦しんでいます。

 その苦しみを私の苦しみと感じたら、放っておけなくなります。

 他者の苦しみを自分の苦しみと感じて放っておけないと思う気持ちのことを「悲」といい、他者を喜ばせることを自分の喜びと感じる気持ちのことを「慈」といって、あわせて「慈悲」というわけです。

 修行者=菩薩自身もこの苦しみに満ちた世界にあって、その苦しみの世界から抜け出したい、つまり涅槃に入りたいと思うのですが、いざ本当に深い涅槃の世界に入ってみると慈悲という気持ちのために、この苦しみの世界で苦しんでいる衆生を放っておけなくなります。

 そこで、状況に応じて絶対の安らぎの世界=涅槃の世界にいたり、やはり衆生とともに苦しみの輪廻の世界にいて、苦しみをなくし安らぎを与えるという働きをしたりというふうに、自由自在に居場所・住所を変えるというあり方をするのです。

 そういう自由自在、住所不定の境地のことを「無住処涅槃」と呼んでいます。

 どこまでもこの体と心が「自分」だという思い込みを脱しきれない私たちからすると、これはあり得ない話のように思えます。

 それを少しでもわかりやすくするために、次のような譬えが考え出されました。

 それは、「海の水と波」の比喩です。

 海の表面に立っている波を見ると、一つ一つ別の波のように見えます。

 しかしそれを海の水という面から見ると、すべて同じ1つの水です。

 海は、状況によって、鏡のように平らであることもできれば、さざ波になることも、大波になることも、怒涛になることもできます。

 しかしどういう波になっても、それが海の水であるということは決して変わりません。

 海は、自由自在に形を変えることができます。

 私たちが自分の本質を「波」と捉えると、それは現れては消えるはかないという意味で「無常」な存在と感じざるをえません。

 そうすると、不安になったり、むなしくなったり、絶望したりするほかありません。

 しかし本当の自分は「海」なのだと覚ると、それは時を超えて時の中で永遠にダイナミックに働き続けるという意味で「無常」な存在だとわかります。

 そうすると、根本的な安らぎと爽やかさを感じながら、時には働いたり時には休んだり、自由自在に宇宙の働きの一部としてあるがままにあり、なるがままになり、なすがままになしていくということが可能になる、というわけです。

 これはあまりにも深い境地なので、私も唯識の文献を手掛かりに「そういうことになっています」という話しかできませんが、修行を深めていけばいつの日か――三大カルパを経て――そういう境地に到達できるというのは納得のできることです。

 そして、前にもお話ししたとおり、私たちの今生の課題としては、これをはるか彼方の行くべき方向を示してくれる道しるべ・理想として、行けるところまで行けばいいということだと思います。

 個人としての私も、できるだけ修行して、なるべくこの「無住処涅槃」に近い境地になってからこの世を去ることができたらいいな、と思っています。

 よろしければ、今後もご一緒に、リハビリ仲間、トレーニング仲間として学んでいきましょう。



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唯識仏教の目指すところ:無住処涅槃(むじゅうしょねはん)の話1

2006年06月19日 | メンタル・ヘルス



                  梅雨の晴れ間、夏近し



 唯識-仏教の目指すところを一言でいえば「覚り」です。

 覚りというと何かとても深遠で神秘的で「曰く言いがたい」もののように感じられるかもしれません。

 しかし、これまでお話ししてきたとおり、あえて言葉で「すべてが1つでありすべてがつながっていることを見ることができる心のあり方」と表現することもできるのでした。

 そのことを理論的に詳しく説明したのが「三性説」です。

 心理学的な言い方をすれば、「心理機能論」といってもいいでしょう。

 しかし私たちふつうの人間は、すべてがばらばらにあって後からつながりができるかのようなものの見方をしています。

 心の奥底から表面まで、すべてばらばらのものの見方しかできないのです。

 そういう心の仕組みを8つの領域に分けて分析したのが「八識説」でした。

 それに対して覚りの心を4つの智慧からなるものとして分析したのが「四智説」でした。

 これも心理学的な言い方をすれば、「心理構造論」ということができるでしょう。

 八識の心を転換して四智の心を獲得することを「転識得智(てんじきとくち)」といいます。

 八識の凡夫から四智の仏までの段階を明らかにしたのが「五位説」です。

 心理学的には、「心理発達論」にあたるでしょう。

 ここまでが、いわば原理論で、次の「六波羅蜜論」が臨床論になります。

 八識の心を転換して四智の心を獲得するには6つの方法が有効-必要であるという話でした。

 これで、唯識の理論の大切なポイントはほぼ尽きるといってもいいのですが、もう1つ、六波羅蜜を実践して八識が四智に転換した結果どういう心境・境地になるのかという、治療-修行のいわば「目的論」にあたる話があります。

 「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」という、大乗仏教独特の考え方です。

 大乗以前の仏教では、生きるということそのものが「迷いの生存」というふうに捉えられていて、覚り・涅槃はそういう迷いの生存からの解放・脱出すなわち「解脱(げだつ)」と同一視されていました。

 ですから、覚った人は輪廻の世界から永遠に解脱して2度と輪廻の世界には戻ってこないことになっていました。

 といっても、覚ったらすぐ死ぬというわけにはいきません。

 覚ってもまだ体があって生きている状態は、「有余依涅槃(うよえねはん)」と呼ばれました。

 「迷いの生存・煩悩の依りどころである体がまだ余って有るが、心はいちおう覚りの状態にある」といったふうな意味です。

 すでにお話ししましたが、「涅槃」とは「ニルヴァーナ」を漢音に写したもので、煩悩の炎の消えた状態というふうな意味です。

 しかし、大乗以前の仏教の修行者たちは、肉体があるかぎり性欲や食欲といった欲望はなくならない、欲望を完全になくするには肉体そのものがなくなるほかない、と考えたようです。

 そういう肉体がなくなり欲望もなくなった状態のことを、「無余依涅槃(むよえねはん)」といいます。

 「依りどころである余計な肉体が無くなって煩悩の炎が完全に消えてしまった状態」というふうな意味でしょう。

 それに対して大乗仏教の人々は、そういう考え方は自分ひとりが苦しみの生存の世界から逃れようというちっぽけな考え方、自分しか乗れない小さな乗り物だ、として批判をしました。

 確かに体がなくなれば煩悩もなくなり、自分は楽になるかもしれませんが、煩悩に苦しんでいる他の人々を救うことはできません。

 他の生きているもの=衆生とおなじ体があって初めて、慈悲・救いの実践をすることができます。

 「この体があるままで完全な涅槃に入れる」というのが大乗仏教の特徴的な教えです。

 私たちの体・生命そのものが、煩悩と迷いの生存の主体であることから解放されて、覚りと慈悲の主体に変容することが可能だ、というのです。

 これが本当だとすると、単に特定宗教としての仏教の枠をはるかに超えた、人類全体にとって大変な希望のメッセージです。

 それが本当かどうか(もちろん私は本当だと考えているわけですが)、次回、ご一緒に考えていきたいと思います。



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言葉を超えるための言葉:智慧(ちえ)の話

2006年06月18日 | メンタル・ヘルス



                小雨に濡れる東寺の五重塔



 六波羅蜜の最後は、「智慧(ちえ)」です。

 人間の心の病の根本的な原因は「無明」ですから、無明が除かれて智慧に変わることが根本的な治療であることは、これまでお話ししてきたことではっきりしたと思います。

 これまで無明を智慧に変えるための5つのトレーニング・メニューをご紹介してきましたが、おもしろいことは、無明を智慧に変えるためのメニューそのものの中に智慧が含まれているということです。

 唯識では、人間は生まれつき――前世から引き継いで――アーラヤ識の中に無明の種子を持って生まれてくると考えられています。

 現代風に言い換えると、言語を使った分別知を持つようになる遺伝的な素質といってもいいでしょう。

 それに加えて、生まれてこの方ずっと言葉による分別知の教育を受け、それもアーラヤ識の中に記憶として蓄えられていきます。

 そういう先天的および後天的原因によって、私たち人間は分別知のかたまりとして育ってきます。

 その中でも重要なのが、自分が実体であると思い込む無意識の中の分別知のかたまり、つまりマナ識です。

 アーラヤ識とマナ識という深くて広い心の領域が分別知のかたまりなのですから、意識や五感がそれにコントロールされて分別知的な働きしかできないのは、当たり前といえばあまりにも当たり前です。

 ところが、不思議なことに、人間の意識は、分別知とは違うものの見方を教えられるとそれなりに理解することもできます。

 「分かる」という言葉がみごとに表現しているとおりどこまでも分別知でありながら、しかも分別を超えた智慧について理解することができるのです。

 心のトレーニング・メニューである六波羅蜜の1つとしての「智慧」は、まず言葉を超えた究極の智慧に到るための手段としての言葉による智慧から始まる、といっていいでしょう。

 すでに私たちが学んできたつながりコスモロジーや縁起や空という考え方が、そういう言葉による「智慧」にあたります。

 しっかり聞いて理解し、よく自分で考えて納得するというプロセスを繰り返し繰り返しやっていると、そのカルマが種子となってアーラヤ識に熏習されていきます。

 アーラヤ識に熏習された、いわば蒔かれた種はやがて芽を吹いて意識に上ってきます。

 意識からアーラヤ識に熏習される時と、アーラヤ識から意識に芽吹いてくる時のどちらの時にもマナ識を浄化していく、という好循環のプロセスについては「煩悩から覚りへ:悪循環を好循環に変えればいい」のところでお話ししたとおりです。

 しかし縁起や空、つながりコスモロジーという考え・思想は、どんなに深くアーラヤ識に熏習されても、やはり分別知というところを超えられません。

 それを超えるのが「禅定」という方法なのでしたね。

 分別知によって分別知を超える「智慧」を学ぶことと並行して、禅定によって無分別の世界そのものを直接に体験し、無分別というカルマの種子をアーラヤ識に熏習することが不可欠なのです。

 もちろん、他の4つの波羅蜜の種子も熏習していく必要があります。

 それらの種子の総合的な力によって人間の心は、5つの段階を踏んで徐々に徐々に、八識から四智に転換していくわけです。

 ……というと、六波羅蜜の6番目としての「智慧」には6分の1の大切さしかないと思う方もあるかもしれません。

 確かにそういう面もあるのですが、人間が「言葉を使って生きる動物」であり、意識的な存在であるという点からいえば、言葉によって意識的に分かる智慧には決定的な重要性があります。

 人間は、言葉による智慧によって言葉を超える世界を分かることができるからこそ、言葉を超えた体験をしたい、しなければならないことも分かり、そのための方法としての六波羅蜜の意味も分かり、実践しようという意志を抱くこともできるのです。

 特に「資糧位」から「加行位」にかけて、この言葉による智慧をしっかり学び、身に付けていくことが必要です。

 資糧位の菩薩のみなさん、治りたいのなら、リハビリ・メニューをこなしましょう。

 成果をあげたいのなら、トレーニング・メニューに取り組みましょう。

 言葉による智慧の復習も、毎日の大切な心磨きの1つです。

 ネット学生のみなさん、ブログ記事や私の本などをぜひ繰り返し読んでください。



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観音さま

2006年06月17日 | メンタル・ヘルス






 最近、15人の著者によるエッセイ集『観音さま――その優しさに包まれて』(佼成出版社、定価1200円+税)という本が出ました。

 日本人の観音さまに寄せる思いには古来深いものがあるようです。

 この本にも著者のみなさんそれぞれの深い思いが綴られていて、とても味わいのあるエッセイ集になっています。

 一流の物書きのみなさんに混じって、私も、「ほのかなイメージとしての観音さま」という原稿を書かせていただきました。

 静かな雨の日、落ち着いて読んでいただくのにとてもいい本だと思います。

 「最近本は出されていないんですか?」と聞いて下さる読者のみなさん、私の単独の本ではありませんが、私のものもともかく、なにより他の著者の方々のエッセイがとてもすてきです。

 ぜひ、お読み下さい。



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心磨きをしてますか?

2006年06月14日 | メンタル・ヘルス





 昨日、授業が終わった後で話に来た学生がいました。

 その話の中で、典型的な質問がありました。

 「授業を受けた時は元気になるんですが、その後また1週間、だんだん元気がなくなるんですけど……(どうしたらいいんでしょう?)」という質問でした。

 そこで、最近よく使っている譬えを話しました。

 「あのね、ちょっと汚い話になるけど、『口が臭くて気持ち悪いんですけど』という相談を受けたとするよね。

 そしたら、ぼくはまず『いつ歯を磨きましたか?』と聞くだろうね。

 で、『1週間前に磨きました』と答えたとすると、どうだろう?

 『それは臭くて気持ち悪くなるのが当たり前でしょう』と言うしかないよね。

 『でも、それまで20年もずっと毎日3回磨いてたんですよ。それなのに……』と文句を言われても、それは困る。

 悪いけど、それはぼくの責任じゃないよね。

 歯磨きを毎日できれば毎食後3回、せめて朝夕2回、最低でも1回くらいはしないと、口が臭くなったり、口の中が気持ち悪くなったりするのは、いわば自然にそうなるんだよね。

 そういうふうになっているのは、誰の責任でも、もちろんぼくの責任でもないんです。

 もし、口が臭くなったり気持ち悪くなったりするのが嫌なら……もっとポジティヴな言い方に換えよう、口がすっきりと爽やかなのが好きなら、毎日歯を磨くしかないんだよね。

 めんどくさいとか、どうして長年磨いたのが続かないのかとか言われても、それはしようがないね。

 心磨きも、歯磨きとおんなじで、毎日しないと、心が汚れてきて、落ち込んできたりする。

 気持ちがすっかり落ち込んで憂うつになるのを『腐る』というけど、まさに心が腐ってくるんだね。

 というわけで、爽やかで元気な心の状態を維持したかったら、毎日忘れず心磨きをしましょう!」と。

 ネット学生のみなさん、心磨き毎日してますか?



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呼吸を調え数える:禅定の話 3

2006年06月12日 | メンタル・ヘルス





 臨済宗で初心者に指導される「数息観(すそくかん)」という坐禅の方法があります。

 足を組んで坐る「結跏趺坐(けっかふざ)」か、初心の間は片方の足だけもう一方の足の太ももに乗せる「半跏趺坐(はんかふざ)」で、まず坐り方が調うと、次にひざがしらと尾てい骨で逆三角形の重心に背骨を立てるという感じですっと上体を伸ばします。

 それから、両手で卵型よりやや丸めという感じの「法界定印(ほっかいじょういん)」というかたちを作り、下腹部に軽く当てます。

 次に、口を少しだけ開けて息を吐きながら上体をゆっくり前に倒していきます。

 息をしっかりと吐ききりながら、体を倒しきったら、口を閉じて鼻から生きを吸いながら、ゆっくり上体を起こします。

 (道場では、適当なタイミングの時に鳴り物が入るのですが、ここでは省略します。)

 そして首筋を伸ばして正面を見、そのまま首筋が伸びた状態で、視線だけ1メートルほど前方に固定します。

 すると、まぶたが下がるので、一見、人から見ると目を閉じているような感じになるので「半眼(はんがん)」と呼ばれていますが、目は閉じるわけではなくしっかり開けていなければなりません。

 よくテレビドラマの武将などが目を閉じて坐禅しているシーンがありますが、あれは基本的には間違いです。

 目は、一点を見つめるのではなく、ただきょろきょろしないように、一ヵ所に固定するだけです。

 ここまでで「調身」ができたわけです。

 続いて、おへその少し下あたり、東洋医学でいう「臍下丹田(せいかたんでん)」から吐いて、そこに吸うという感じで、ゆったりと呼吸をしていきます。

 「呼吸」と表現されているように、吐くのが先で、吸うのは後です。

 しっかりと吐かないとしっかり吸うことができません。

 丹田に気合を入れて、なるべく長くて細くて静かで滑らかに呼吸するように、といわれています。

 そして、呼吸を数えていきます。

 吐く時に「ひとー」、吸う時に「つー」と数え、「とお」まで数えたら、また「ひとー、つー」に返ってこれを所定の時間繰り返します。

 呼吸を調えるのが「調息」ですが、数息観では、呼吸を調え数えることに集中することで同時に「調心」を行なっていきます。

 これは単純な方法ですが、決して容易ではありません。

 「長くて細くて静かで滑らかな呼吸」は、やってみるとなかなかうまくいきません。

 さらに、他のことを考えずそれだけに専念することも困難です。

 呼吸は乱れ、気は散り、足はしびれて痛くなってきて、「なんで痛い思いをしてまで、こんなことをやっているんだろう? おれには坐禅なんて無理なんじゃないか? こんなことをやったって、効果があるんだろうか?」などなど、いろいろな雑念が湧いてきます。

 そこで学んだことを思い出すことが必要なのですが、雑念はすべて分別知です。

 分別知が悪循環しているかぎり、煩悩は浄化できません。

 煩悩を浄化したいのなら、そういう疑問-雑念は放っておいて、「ひとー、つー」と集中していかなければなりません。」

 生まれてこの方ほとんど分別知だけを熏習してきたマナ識やアーラヤ識が、短期間で浄化されるわけはありませんが、気長に続けていると、ごくわずかずつですが変化していきます。

 何年も何十年も経って振り返ると、ゆっくり、しかしじっくり確実に心が昔より爽やかになっていることが実感できるのです。

 こういう話をすると、多くの方に「もっと即効性のある方法はないんですか?」と聞かれます。

 私は、「すぐに効いてすぐに効き目がなくなる方法と、すぐには効かないが効き目が持続する方法と、どちらが好きですか?」とお答えすることにしています。

 実は、コスモス・セラピーというかたちでかなり即効性のある方法も工夫しているのですが、私のところで学ばれる方には、最終的にはやはり坐禅をすることをお勧めしています。



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足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話 2

2006年06月11日 | メンタル・ヘルス



                    八甲田山のブナ林



 私は、三十五年くらい前に、臨済宗系の秋月龍珉(あきづきりょうみん)先生の道場で坐禅を教わりました。

 他にいろいろな瞑想法があることは、いろいろな文献で知っていますが、自分にはこれが合っていると感じてきました。

 他の方法は、本を読んでできる範囲で独習したことはありますが、本格的に教わったことはありません。

 そこで、私がお話しできるのは、臨済禅の「坐禅」というかたちの「禅定」です。

 まず「調身」ですが、ご存知のように、坐禅では、「結跏趺坐(けっかふざ)」といって、左右の足を組みます。

 これは、足をしびれさせて我慢会をさせるためにするのではありません。

 両ひざとお尻の下にしいた座蒲(ざふ)で長さを足した尾てい骨の3点で、ちょうどカメラの三脚のような安定した状態を作るためにするのです。

 これは、足が長くて痩せている人の多いインド人には、静かに長く坐っているためにはいちばん楽な姿勢なのだそうです。

 確かに比較的足の短めな日本人が、足首、膝、股関節やその周辺の筋肉がこちこちに硬いままで、最初から無理にこんな姿勢をすると痛い目にあいます。

 社員研修などで、無理やりに坐禅をさせられて、足のしびれと痛みですっかり懲りて、坐禅なんか二度としたくないと思ってしまう人が多いようですが、残念なことです。

 しかし、ちゃんと準備の柔軟体操をしてやわらかくしてからすると、それほどひどいことにはなりませんし、慣れてくると体を安定した姿勢にして心を安定させるという目的のためにはやはり非常に適切な姿勢だと感じるようになります。

 最近は、柔軟体操から指導する禅道場もあるようですし、私の指導している唯識と坐禅の会では、必ず柔軟体操をお教えします。

 これまで、授業を受けてきて、人間の根本問題を解決するには、やはりアーラヤ識、マナ識という無意識の領域まで含めた心全体の浄化が必要だと感じた方、少なくとも私のところでは、「足がしびれて痛くてひどい目にあうのではないか」という心配はありません。

 決心して、坐禅に取り組んでみませんか。

 どんなに効果の高いトレーニング・メニューがあっても、それを読んでいるだけでは、レベル・アップはしません。

 どんな特効薬の効能書きがあっても、読んでいるだけでは治りません。

 多くの方がまちがえているようですが、仏教の話・知識は薬の効能書きのようなものです。

 読んだだけでも、ほっとするという安心効果があるのですから、それではダメだとは思いませんが、それでは不足だと思うのです。

 薬やリハビリ・メニューにあたる実際の効果をもたらすのは、六波羅蜜です。

 私は、まわりの若い人によく「飲まない薬は効きません」といいます。

 「飲まない薬が効かなくて、病気がよくならないのは、ぼくの責任じゃないよね?」と。

 これは別に意地悪をいっているわけではないと思うのですが、どうでしょう?


*この記事は非常にたくさんの方がアクセスしてくださるので、しびれについて新たに増補した記事を再録しています。こちらをご覧ください。



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ばらばらの見方・分別知を超える方法:禅定(ぜんじょう)の話 1

2006年06月10日 | メンタル・ヘルス





 私たち普通の人間の心は、心の奥底から表面まですべて物事をばらばらに分離したものとして捉えます。

 「分別知」です。

 そして、言葉を話すことは口のカルマ、考えることは心のカルマで、カルマは種子になり、マナ識を通ってアーラヤ識に溜まり、やがて芽生えてマナ識を通って意識に浮かんでくるという循環をしますが、この循環はすべて分別知の悪循環になっています。

 この悪循環を断たないかぎり、分別知から生まれる煩悩を断ち切ることはできません。

 煩悩を根本から断ち切るためには、分別知の悪循環を断ち切る必要があるのです。

 六波羅蜜の第5、「禅定(ぜんじょう)」はそのための方法です。

 ここで具体的なことを詳しくお話しすることはできませんが、大まかなポイントだけ話しておこうと思います。

 ご自分のことを振り返ってみてほしいのですが、人間はだれでも朝起きてから夜寝るまで目がさめている間中、心の中にいろいろな言葉やイメージがめぐっているのではないでしょうか。

 そういう心中での言葉やイメージのことを仏教では「念」といいます。

 それは驚くほどしっかりと自動化されていて、言葉やイメージをめぐらないようにするというのは、やってみるとほとんど不可能だと思うくらいに困難です。

 私たちの心中では朝から晩までほとんどいつも、いろいろな言葉やイメージ、つまりばらばらの「雑念」がとめどもなく湧いては沈み湧いては沈み…と、めぐっています。

 雑念をなくして「無念無想」になろうとしても、まず無理です。

 雑念をなくそうという思い自体ある種の分別知による念・雑念ですから、雑念に雑念が重なり、雑念と雑念が葛藤して、心が混乱状態になるばかりなのです。

 ところが、古代インドの瞑想家たちは、そういう念と念が葛藤する状態を超えるみごとな方法を発見したのです。

 それは、直接念を押さえつけ、心を静めようとするのでなく、いわば念を生み出す心の裏をかくような方法です。

 人間の心と体は、区別はできますが分離はできない一体のものです。

 そして、意識的な心で、無意識的な心(つまりマナ識やアーラヤ識)をコントロールして静め、落ち着かせることは難しくても、体を静かにし、落ち着かせるならそれよりはいくらか容易です。

 そこで、①まず体の姿勢を調えて、落ち着いて静かに坐ることから始めるのです。

 それが、坐禅などの坐り方・坐法です。

 さらに瞑想家たちは、人間の体の機能のうち意識的な心である程度コントロールでき、しかもそれが無意識的な心につながっているという特殊なものがあることを発見したのです。

 ちょっともったいぶった言い方をしてしまいましたが、要するに呼吸です。

 呼吸は、意識である程度コントロールできます。

 そして、呼吸が浅く短いと、無意識を含めた心全体があわただしい気分になり、深く長いと、落ち着いた静かな気持ちになります。

 ②体の姿勢を調えたら、次に呼吸を、なるべく細くて長くて静かでなめらかになるように調えるのです。

 実際にやっていただくとわかりますが、これは「いくらか容易に」と表現したように、すごく容易ではありません。

 それどころか、かなり難しいことが実感できるでしょう。

 それでも、直接、無意識の心を調えようとするよりは容易です。

 ③それからさらに、「無念」になろうという念を起こすのではなく、一つの念に集中する、いわば「専念」することで、心を静めていくのです。

 それは、例えば特定の聖なる言葉・マントラであることもあり、聖なるイメージであることもあります。

 どういうものを専念・精神集中の対象にするか、仏教を含む古代インドの宗教ではきわめて多様な方法が工夫されました。

 こうした、心を静める手順は、禅では①「調身(ちょうしん)」、②「調息(ちょうそく)」、③「調心(ちょうしん)」と呼ばれています。

 次回、この手順についてもう少し詳しくお話ししていこうと思いますが、ネット授業という枠で坐禅の指導の具体的なところまですることは難しいので、関心のある方には、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所のブックレット『サングラハ・実践の手引き』をお読みになり、時々開催している坐禅入門の講座に参加されることをお勧めしておきたいと思います。

 研究所については、ブックマークのところでアクセスしてみてください。



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難易度のもっとも高いトレーニング・メニュー:忍辱(にんにく)の話 1

2006年06月05日 | メンタル・ヘルス

 自分と他人、おれたちとあいつら、この物とあの物、人間と自然など、すべてのことを分離し別れたものと見るものの見方を「分別知(ふんべつち)」というのでした。

 確かにそれぞれの物・事には区別があります。

 くっきりと区分することができます。

 しかし、根本的には分離していない、つながっていて、結局は一つなのでした。

 そういう根本的な真理・法・ダルマからいうと、他人が私に損をさせた、嫌な思いをさせた、傷つけたというのは、広く深い意味で自分が自分に損をさせた、嫌な思いをさせた、傷つけたということになります。

 傷つけられたというので傷つけ返したら、実は深い意味での自分を二重に傷つけることになります。

 譬えると、右手に包丁を持ってお料理をしていて、誤って左手の指を切ってしまったというので、傷ついた左手が包丁をひったくって右手に切りつけて仕返しをしたら、両手とも傷ついてひどいことになるようなものです。

 いうまでもなく、右手と左手は同じ一つの体のそれぞれの部分ですから、決してやられてもやり返したりはしません。

 それどころか、左手の指を切った拍子に刃が上を向いた状態で包丁を落とし右手のほうがもっとひどい怪我をしたというケースなら、軽く傷ついた左手でもっと傷ついた右手の治療をすることだってあります。

 六波羅蜜の第三で、ある意味では〔少なくとも私にとって〕もっとも難易度の高いメニューである「忍辱(にんにく)」というのは、他のもの(者・物)から傷つけられてもそれを忍ぶということです。

 〔もちろん私も含めて〕私たちは、なかなか自分に不利益を与えた相手を許すことができません。

 腹を立て、憎み、恨み、仕返しをしようと思ってしまいます。

 しかし、すべてがつながって一つということを知って、さらにそれを実感し、覚りたいのなら、この困難なトレーニング・メニュー、「忍辱」に挑戦する必要があります。

 ここで重要なのは、これは条件付きmustで、強制的な意味での倫理、絶対化されたmustではないということです。

 無理をして、「人を許さなければならない」と思っても、なかなかできません。

 無理をしないためには、まず頭だけでいいから理を認識することが先です。

 「あいつとおれとは、実は一体なのだ」と理論としてだけでも認めるのです。

 そこのところを、唯識では「忍はまず認から始まる」といいます。

 怒りや恨みや仕返ししたいという感情を押さえつけようとするより、感情は感情としてあるがままにしておいて、理をしっかりと認識するのです。

 そして理をしっかり認識できたら、少しずつでも実習するのです。

 「まったく腹が立つ。どうにもゆるせない。何とか仕返しをしてやりたい……でも、本当はあいつとおれとはつながっていて、それどころか一つの宇宙の部分同士なのだ。まったく気に入らない、そんな気になれない、どうしてもそうは思えないけど……しかし理としてはそうなるんだ。ならば、せめてひどい仕返しをするのだけはやめておこう」というふうに。

 ブッダの言葉に「怨みに報ゆるに怨みをもってすれば怨みの絶ゆることなし」というのがあります。

 憎しみに対して憎しみ返すと、また憎しみが増幅されてこちらに返ってきます。

 果てしない憎悪の悪循環を断つためには、忍辱という薬が必要です。

 それより何より、人を憎むと自分自身の心も不愉快です。

 自分自身の心の爽やかさのためにも、憎悪の悪循環を断つためにも、そして「すべては一体」と覚って心が超健康になるためにも、このきわめて難易度の高いメニューに何とか取り組んでいきたい、と筆者も思っています。

 みなさんも、金メダルに向けて選ばれた人・選手のように、菩薩でありたいと思われるならば、ぜひ挑戦してください。

 たぶん、よほど運のいい方か、もともときわめて柔和な方以外は、毎日のように忍辱修行のチャンスを与えられていると思います。

 この世・娑婆(しゃば)世界は怨憎会苦(おんぞうえく)の世界ですからね。

 毎日続くハード・トレーニング、長丁場で挫折しないよう、お互いに健闘を祈りあいましょう。



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八戒、十戒、二百五十戒:戒の話 3

2006年05月31日 | メンタル・ヘルス

 五戒の次に「八戒(はっかい)」または「八斎戒(はっさいかい)」と呼ばれるものがあります。

 これは、在家の人が特定の時に限って守り、いわゆる精進潔斎(しょうじんけっさい)をする場合の戒です。

 五戒に、「不塗飾香鬘舞歌観聴(ふずしょくこうまんぶかかんちょう)」、香料を塗ったり髪を飾ったりせず、踊りを見たり、歌を聞いたりしないこと、「不眠高広厳麗床上(ふみんこうこうごんれいしょうじょう)」、高くて広くて豪華で美しい床で寝ないこと」、「不食非時食(ふじきひじじき)」、決まった時以外に食事をしないことが加わります。

 簡単にいえば、贅沢、華美なことをしないで身を慎むということでしょう。

 余談ですが、『西遊記』の猪八戒の名前はここから来ています。彼がいぎたなくて食欲、性欲などのコントロールがきわめて苦手だったからこそ、この八戒を守るようにという意味で、三蔵法師がつけたわけです。

 それから、さらに多くなるのが「十戒(じゅっかい)」または「十善戒(じゅうぜんかい)」です。

 不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語までは五戒と重なり、不飲酒が省かれて、「不両舌(ふりょうぜつ)」、二枚舌を使わないこと、「不悪口(ふあっく)」、人の悪口をいわないこと、「不綺語(ふきご)」、飾った言葉を使わないこと、「不貪欲(ふとんよく)」、欲張らないこと、「不瞋恚(ふしんい)」、腹を立てたり恨んだりしないこと、「不邪見(ふじゃけん)」、因果・縁起の理法を否定するような考えをもたないことの5つが加えられています。

 これも在家、出家共通の戒ですが、特に在家の信者の熱心な人には、この「十善戒」が授けられ、守るように教えられました。

 お酒の好きな人は、不飲酒が省かれているので、ほっとするかもしれません。

 かつての日本人の真面目さ、潔癖さ、正直さ、真面目さ、やさしさ、柔和さ、質素さといった美点は、先にお話した五戒や、こうした十善戒の心がお寺でのいろいろな機会に語られたお説法などを通じて庶民に滲み込んでいったことで育まれたという面がかなり大きいと思います(それは寺子屋で儒教が説かれたことと並行しています)。

 かつて私自身、仏教の意味は高尚で難解な教理や厳しい修行によって到る深い境地などだけにあると思いがちでしたが、現代のように荒廃してきて初めて、こうした一見当たり前のようにも思える、日常的な戒めがどんなに大切なところで日本人の精神性を育んできたのか、見直さなければならないと思うようになりました。

 人間は、倫理も含めてすべてのことに関して、教えられなければ学ぶことは困難です。

 私たちは、仏教だけに通用するのではない、普遍性のある、こうした十善戒のようなことをちゃんと子どもたちに教えることのできる教育制度を考えなければならないのではないか、と思います。

 (ただし、これまでお話してきたことと矛盾するように思われる方もあるかもしれませんが、私は現在の教育基本法の改正には疑問を感じています。

 民主主義というのは、議員の多数決という手続きを経ればそれでいいというものではないからです。

 教師〔つまり教育の現場を担う国民〕の大多数との合意が十分に形成されないところで――現状では形成されているとはまったく思えません――法律だけが制定されると、それは罰則を伴って強制的に執行されることになりかねません。

 強制によって本当には納得できていないことを教え-教えられることは、教育者にも子どもにも心の大きな歪みを生み出すことはほぼ確実です。

 心の歪みをもたらすようなものは教育とは呼べないでしょう。

 教育とは呼べないものを強制する法律を「教育基本法」として制定するのは、民主主義国家の国民のために存在している政治家としてやるべきことではありません。

 本当に意味のある改正をしたいのなら、何年かけても何十年かけても、国会議員の過半数だけではなく、現場の教師の大半が心から納得して子どもたちに伝えることのできるように中身の徹底的な合意形成に努力するべきだと思います。

 そのためには、これから国民の大半、教師の大半、そしてその代表としての国会議員の大半が心から納得できる日本のコスモロジーの創造から取りかかる必要があるのではないか、というのが私の意見です。

 拙速は、まさに速いだけできわめて拙いのです。

 「○年もかけて議論してきたのだから、もういいのではないか」という話ではありません。

 長い横道の、しかし大切なコメントでした。)

 さて、出家者すなわち僧が、守るべき戒はこんなものではありません。

 250もあるのです。「二百五十戒」といいます。

 さらに尼僧はもっとたくさんの戒を課せられます。

 しかし、これはお坊さんではない読者のみなさんにはあまり関心のないところでしょうし、正直なところ私も細かく正確には学んでいませんので、この授業では省きたいと思います。

 最後に、唯識の代表的古典の1つ『摂大乗論』(真諦訳)で、戒について述べられていることを紹介しておきたいと思います。

 そこでは、戒には3つあるといわれています。

 第1は「摂正護戒(しょうしょごかい)」といい、これは要するに、守るべき戒を正しくちゃんと守るということです。

 これは「戒」という言葉の一般的な意味そのままで、特別な特徴はありません。

 第2がいかにも大乗仏教らしい戒の捉え方で、「摂善法戒(しょうぜんぽうかい)」といいます。

 すべての善いことは全部やるという戒なのです。

 消極的にやってはならないことをやらないというだけではなく、やるべきことやるというだけでもなく、もっと積極的にやれる善いことは何でもやるというのですから、すごい話です。

 第3はいっそう大乗仏教らしく、衆生の利益になることなら何でもやるという戒、「摂衆生利益戒(しょうしゅじょうりやくかい)」です。

 第2、第3の戒は、もういわゆる「戒律」という言葉の印象から来るような窮屈な堅苦しい話を超えて、やれる善いことなら何でもやろう、衆生のためなら何でもやろう、という柔軟でスケールの大きな生き方の方針とでもいうようなものです。

 そして大胆にも、もし第1の意味での戒を破ることが衆生のためになることだったら破ってもいいと第3の「摂衆生利益戒」ではいわれています。

 まさにすべての衆生を救いたいという大乗の菩薩の願いにふさわしい「戒」のあり方ですね。

 まだまだベッドで寝たきりからようやく起きあがって、初歩の初歩のリハビリを始めたばかりの菩薩である私たちには、難易度の高すぎてうっかりすると怪我をしかねない戒ですが、究極の理想、指針として心にしっかりと留めておきたいものです。



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基本的な5つの戒:持戒の話 2

2006年05月29日 | メンタル・ヘルス

 私は、伝統的な仏教の戒律を授かって守っているわけではありませんし、戒律についてはあまり勉強していないのですが、いちおうおおまかなポイントだと思うことだけお話ししていきます。

 まず、僧も在家の人も共通に守る、非常に基本的な5つの戒、「五戒(ごかい)」というのがあります。

 不殺生(ふせっしょう)、殺さないこと、不偸盗(ふちゅうとう)、盗まないこと、不邪淫(ふじゃいん)、不適切なセックスをしないこと、不妄語(ふもうご)、ウソをつかないこと、不飲酒(ふおんじゅ)、お酒を飲まないこと、の5つです。

 不邪淫と不飲酒で引っかかる人は多いでしょうが(不飲酒については私もです)、他の3つは言うまでもないほど人間として非常に基本的なルールですね。

 覚るかどうかという話以前に、人間同士が信頼しあい安心して生きていく上で、これらは鉄則といってもいいでしょう。

 これらがきちんと守れただけでも、世の中はどんなに平和になるでしょう。

 これらが権威ある仏の教えとして広められたことによって、アジアの人、日本人の真面目な国民性が育くまれてきたことはまちがいありません(もちろん儒教の影響も大です)

 そして、前にお話ししたように、近代化によって仏教―神仏儒習合のコスモロジーが否定されるにつれて日本人の倫理性・精神性も崩壊しつつあります。

 私たちは、仏教の戒の意味をコスモロジー的視点からもう一度見直す必要があるのではないかと思います。

 それから、「不邪淫」はもともと、僧はセックスそのものをしてはいけない、在家は結婚という形式の外でのセックスはいけないという意味です。

 これは、いい悪いは別にして、現代の日本ではほとんど通用しない戒ですね。

 しかし、セックスは人間同士の行為ですから、これを「相手も自分も傷つけるような不適切なセックスは避ける」という意味に取れば、現代でもきわめて有効な規準だと思います。

 性は、命のすばらしい機能であると同時に、人間においては非常に歪み汚れたものになる危険も含んでいます

 かたちは時代によってある程度変わっていくにしても、男女がお互いを幸せにできるようなセックスが人間として適切であり、自分も含め誰かを傷つけるようなセックスは不適切であるという大まかな物差しがあれば、その時代、状況にふさわしいルールが出来上がってくるのではないか、と私は考えています。

 現代の日本では、最後の「不飲酒」という戒は、僧侶を含め守っていない人が圧倒的多数のようです。

 それどころか、仏教の裏用語で「般若湯(はんにゃとう)」というのはお酒のことです。

 「覚りに導くお湯」と呼んで、お酒を飲むこと=不飲酒戒を破ることをごまかしたのですね。

 東南アジアのテラヴァーダ仏教の僧侶の方からすると、日本の僧侶がお酒を飲むのは、許しがたい破戒に思えるようです。

 私もかつてプロテスタントの「禁酒禁煙」という厳格なモラルを守っていましたが、日本のお酒を飲むことによってコミュニケーションを図るという習慣を見ているうちに、「酒は呑むべし、呑まれるべからず」ということでいいのではないかと思うようになり、適度な範囲で人と楽しく飲むようになりました。

 呑まれてしまって羽目をはずし、大失敗、とんでもないことをするなんてことにさえならなければ、「不飲酒」は「酒に飲まれないこと」というゆるやかなルールでもいいのではないでしょうか。

 どちらにしても、原則は、心の健康回復のために妨げになることはしない、助けになることはするということだと思います。


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