思考の部屋

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ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(8) 哲学以前

2010年11月18日 | 哲学

                            (写真:出隆先生 『哲学以前』勁草書房から) 

 戦前まで西田哲学論者であった者がその後自己の思想を唯物史観に転換した哲学者がいます。今ではほとんどその名が表に出ない二人の学者がいます。

 一人は『行為的世界』(弘文堂書店 昭15.12.31)の著者の柳田謙十郎先生(1893~1983)で、過去にブログで取り上げたこともあります。
 
 無常で無我であること(2007年01月20日 | 仏教)
 http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/a685a9c93640bee6260878584be9dc92

もう一人は、講談社学術文庫にもその著『哲学以前』がある出隆(いで・たかし)先生(1892~1980)です。

 哲学以前と言うとギリシャ以前の哲学のように思いますが、「純粋経験」から始まる書ですので、早い話が「考える以前」と言った方がよいかもしれません。

 今朝の注目はこの出先生に関係しての話です。出先生御本人はこの『哲学以前』を焚書に期したいほどであったようです。

 講談社学術文庫からの引用ではありませんが、出隆著作集が勁草書房から出版(昭38.3.1)されその第1巻がこの『哲学以前』で手元にはこの書籍しかありませんのでこれを参考にしますが、この巻末にある解説は哲学者の大井正先生が書かれています。

 大井先生は、この『哲学以前』の出版に対しどのような心境であったか、次のように書かれています。

<引用>

 出先生は、戦後じぶんがコミニストになったことを表明され、哲学学説としては弁証法的唯物論を研究し、その真理を主張された。『哲学以前』は大正二年(一九二二年)に刊行されたものであったから、このころの出先生にとっては、この著作は、カラカラに乾燥した排泄物みたいなものであるはずであった。しかし、この乾燥した肥料の商品価値は、戦後でもなかなか下落はしなかった。
 
先生が脱糞されたもののなかではいちばん多く買手があったもののようである。先生はしかし、あのように宗旨がえを表明されて以来は、『哲学以前』を刊行することを極度にきらった。戦後にはいちど新潮社から文庫本で刊行されたが、この名著は、著者みずからの手によって焚書の禁に処せられていた。先生は、『哲学以前』を金魚のウンコみたいにいつまでもひきずっているじぶんを感じるのがいやであったにちがいない。

<引用終わり>

と書いています。どうしてそんなにこの著が嫌だったのでしょう。大井先生は続いて次のように書いています。

<引用>

 この書物を焚書の禁にあわせた主要な理由は、こういう 自意識からではなく、むしろ、骨のズイまで観念論におかされた『哲学以前』をいつまでも読者大衆の目にさらしておくのは、よろしくないという、大義名分、あるいは啓蒙精神からであったようだ。しかしわたしは、先生のこの意見と処置には納得しかねた。

<引用終わり>

実にこの『哲学以前』は出先生の心情とは裏腹に人気が高く希望者が多くその後も出版が続いていました。当然全集の第1巻に収められました。

 西田哲学の解説書とくに、西田哲学における「善の研究」「自覚に於ける直観と反省」を理解するには非常に参考になるものとなっています。

 私がこの『哲学以前』に興味を持ったのは「良心」という言葉に注目していたときに、この書物の中で「道徳と哲学」の結論として「良心」について語られていたからです。

 いつものとおり長文の引用になりますが、それは著者の思想を壊さないためです。

内容というよりも「良心」という言葉を「良心の宣誓」という思考パターンに視点においた場合とその使われ方が違う点に注目していただきたいと思います。

<引用>

 普通に良心というは----何か客観的実在者のようにきこえるが、実は----かかる純我が当為的命令の主体として働く作用を指して言っているのである、すなわちわれわれに義務を課し義務を与えるもの、われわれのうちにおいてわれわれに対して当為的命令者とし義務附与者として働く場合の働きすなわち純粋意志だと言えよう。
 
 そしてわれわれがかかる内的良心の命令に従うことが義務を果し課題を解くことであり、これを「まこと」といい善というのであろう。われわれが他人の単なる個人的欲望からでた命令(強制)に従うことをあえてせず、或いは論理的良心を欠く学説に断乎として反抗するなどは、それらがかかる純我の当為的煉獄を経過していないからである。
 
 われわれは学説に潜む良心に動かされるときそれを真理とするのであり、他人の声に純なる良心の命令を聴くときのみこれに従うのである。
 しかし、われわれが良心の命令に従うというが、この「われわれ」とは何か、「従う」とは何か。----われわれが真に父母の命令に従うのは、父母の物欲に媚びるのでもなくわれわれの肉体的安逸のためなどでもない。全く父母における良心の命令に従うのである。

 父母の命令というは、父母の良心が「われわれに命令せよ」と命じた命令である。この場合にのみわれわれは父母に、父母の良心に、従うのである。しかも父母の良心に従うというは、実はわれわれのうちにある或る者に(例えば「父母の命令に従え!」などいう声に)すなわちわれわれの良心に従うことである。
 
 同様に、われわれが他人の学説を真理としてこれに従うのも実はわれわれにおける論理的良心に従うことであろう。しかしながら、かく良心は、父母における良心と言われ、われわれの良心と呼ばれて----所有者の数に応じて----多数的に考えられてはいるものの、実は自他の区別なき超個人的純粋意志に属する一種の働きなるがゆえに、むしろ根本的には純一なる真実在と見るべきではあるまいか。
 
そして個別的に(良心の所有者として)父母と言われ、われわれと呼ばれている者は、かえってこの個人的の良心(真実への忠実性)によってこの良心自らに従うべく命ぜられ規定された限りにおける良心自らではあるまいか。換言すれば、「われわれ」というは良心の自己規定であり、良心活動の諸相ではあるまいか。

 義務に服し良心に従うわれわれは、しかる限り、かく「まこと」に服従するわれわれである。しかもかく服従せんとし或いは服従し得るわれわれの良心ではないか。いな、「われわれの」というは知的反省の結果であって真のわれわれは良心自らではないか。----「われわれが良心に従う」など言うとき、「われわれ」というは、かく従うべく規定された良心の相を反省したときの呼び方である。
 
自らの命令に服従する良心、自らに規定されたる良心を客観化し対象化して考えるとき、命令されたる「われわれ」とし従うべき「われわれ」として----個人我として----考えられたものである。

なるほど、しかる限り、反省されて良心活動の主体と考えられたわれわれ個人は、義務づけられ運命づけられた人間であって、自然必然的運命に服せねばならず道徳命令に束縛されざるを得ない不自由な自然人であろう。しかし一切を自然必然的であるとするは論理的(科学的)良心ともいうべき純我の働きであり、義務を下し良心を与えるは倫理的良心ともいうべき純粋意志の仕事ではあるまいか。

われわれが必然的な人間であり不自由であるのは、かく必然的とし不自由として反省するわれわれなるがためではないか。自由を求める者なればこそ自己の不自由を意識し、また不自由と知り必然的と考える自由を有すればこそかく反省し得るのである。われわれが誤謬であり罪悪であり悩みであるのはわれわれ自らが良心そのものなるがためではないか。

われわれが良心でありわれわれが義務命令者であればこそ、われわれは良心に従い義務に忠なるを得るという自由を有するのであろう。当に為すべしと命令する意志活動の主体なるがゆえに為し能うところの自由を有するのだと言えよう。われわれが良心に従ってやましからざるは、良心が良心自らに従うところの自由によって行為するからである。

<引用終わり同書p285~p288>

思うにここに語られている「良心」は、何者かに標準をおいた、例えば神に対峙した時のような、先生的な誓いの良心ではなく、これぞ哲学以前の自らに生成される「良心」であると思います。

 文中のおける純粋意志からの言葉のとおり純粋経験と先験的統覚との合一がありさらに早い話が性善説的な、いやそれ以前の主客未分(主客未剖と出先生は云い、「それは主客合一・物我一如の境である」という同書p55)ということです。

 出先生の「良心」は、一元的な立ち位置にある「良心」である例にふさわしいものではないかと思います。

 今朝の内容は、

ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(1)・一元論二元論の世界
(2010年10月22日 | 哲学)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c189471da3c0000fec0db24775ec114c

の一元論についての話になります。

 この出先生の『哲学以前』は、作者の焚書的な意向は西田幾多郎先生にある面否定的に考える者にとっては力強いものとなりましょうが、逆に理解しようとする人にとっては意味のある力強い参考書になるのではないかと思います。

 秋風の風幡心動でした。

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