思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

日本の方法・残り続けるもの

2010年11月19日 | つれづれ記

 千夜千冊で有名な松岡正剛先生の書かれる書評などをサイトや著書に読むのですがいつも惹きつけたれます。ほとんど自分の興味を抱く点については既「お見通し」と言わんばかりに言及されていることがほとんどです。

 ニュアンスが若干異なっていても、まず新しきを語る私ではないのだよと自覚させられます、が、しかし方法論や思考の方向や目線には誤りはなさそうだと安心することも多いことは確かです。

時々当該ブログにも松岡先生の著書からの引用しています。

【「うつろい」というやまと言葉】再考(2010年03月25日 | 東洋思想)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/9a01233f7e05bec57b35dbc33549d751

「うつろ」というやまと言葉に日本的な思考法を見つめようと探求しているときに先生の著書にやはり見つけることができました。

 その時は惹きつけられる一冊と書きましたが、松岡先生は「連志連衆會(れんしれんしゅうかい)」の後押しで開催している「連塾」という講演会の内容が春秋社から『連塾方法日本』という書籍で出版されています。

 現在二冊目で、一冊目は『連塾方法日本Ⅰ』で「神仏たちの秘密」、二冊目は『連塾方法日本Ⅱ』「侘び・数奇・余白」です。

 一冊目には最近ブログの森の仏教ブログでいろいろな方が言及されている「山川草木悉皆成仏」についてもその第三講「仏教にひそむ謎」の「顕密体制のうえの中世日本」なかで詳しく解説されていました。

 このような日本独自な思想の成立がどのように立ち現れてきているのかを知るにはとても参考になる講義内容になっていました。

 今朝はそれを話題にするのではありませんのでこのくらいにしますが、日本の方法論というテーマでこの連塾の講義は進められているのですが、個人的に日本の「和魂・荒魂」という言葉を不可思議、二項対立ではない対立的な概念、それでいて調和があり安定性があるように感じられる言葉と勝手に思っている事について最近下記のブログで言及しているのですが、

ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(7) 和魂・荒魂
(2010年11月17日 | 古代精神史)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/55e1db6c7eef75ee3c81890ce1f1ea84

 松岡先生の上記の『連塾方法日本Ⅱ』の中に次の言及があるので紹介したいと思います。直接「和魂・荒魂」を語るものではありません。あくまでも「日本の方法」についてです。

<引用>第四講「分は記憶する」-「森林文化のメソッド」p18~p20

 私は京都で生まれたとはいえ、長いあいだほとんど日本のことについて何も知りませんでした。青年時代までは、表現主義やダダやシユルレアリスムや未来派に憧れていましたし、早稲田のフランス文学科に入ったのはマルセル・プルーストやジュール・ラフオルグを読みたかったからです。
 
 その後もメルロ=ポンティの「間主観性」はすごいとか、チャールズ・パースという哲学者の「アブダクション」(仮説の形成)という方法はすごいとか、どちらかというと欧米の学問や文化に強く魅かれていた。最近はあまり読まれなくなったサルトルだって、ある部分で見ればレヴィ=ストロースに負けていないですし、ヴァルター・ペンヤミンのたとえば 「パッサージユ」(移行・街路)といった考えかたも非常にかっこいい。

 しかししだいに、いくらそこに魅かれても、それらの思想はヨーロッパの言語や風俗、歴史と習慣となかなか切り離せないものであるのだということが見えてきました。というのは、そういうかっこいいものを日本にあてはめてみると、必ずしもうまくいかなくなることが少なくないからです。

 そもそも、一口に欧米といっても、そこには多様な民族と歴史と文化があって、多様な音譜と習慣と理念があるわけです。また、それらの何でもが正しいなんてことはないし、それらを輸入しっぱなしで使えるかどうかというと、けっこうあやしいのはあたりまえです。何もかもを日本に適用できるわけではない。とくに日本は一神教の国ではなく多神教ですから、多神多仏の国ですから、ジャッジメントについては、欧米とはそもそも時間の単位が違うわけですね。
 
どういうふうに違うのか。大きな見方をしてみると、一言でいえば、一神教というのは砂漠で育った宗教です。砂漠では、自分の行き先や方向を的確に判断する必要があります。もし判断をまちがえれば、オアシスにたどりつけなくて死ぬ。右なら生、左なら死、そういう二者択一的なところです。

 そういうところでは、神は一人でないと困るわけです。すなわち、ジャッジは一つでなけれ ば困る。いろいろ右や左や真ん中があっては迷うだけですね。それが砂漠型の宗教、すなわちモーセの宗教、ユダヤ・キリスト教、あるいはイスラームというものです。
 
一方、雨期の多いガンジスやインダスや黄河に育ったヒンドウー教や仏教やタオイズムは、森林型の宗教です。多神多仏です。森林の中では見通しがきかないうえに、雨季も乾季もあり、たくさんの猛獣や虫や植物がはびこつている。そのようななかで身を守っで生きていくためには、一人の知恵や意見では足りません。樹木について詳しい人、キノコについて詳しい人、ヘビについて詳しい人、あるいは雲や風雨に詳しい人たちが、それぞれに意見を出しあって方針を決めていく必要がある。つまり合議によって決断をしていくほうがいい。

一神教的な世界から見ると「何をいつまでも談合してるんだ」ということになるんですが(笑)、そこにはタイムラグがあるわけです。
 私はいつからか、日本を考えるときには一神教的な考えかたからだけで見ていてはだめではないか、森林の文化が育んだ多神多仏型のメソッドをなんとかもう一度取り出して形にすべきではないかと思い始めたのです」

 このメソッドは何かというと、さまざまな知を組み合わせるというこ上です。中核に据えるべき思想がドーンとあるのではなく、また、自分が属している世界の全体は各部分の正確な総和で成り立っでいるのではなく、最初から自在な組み合わせのヴァラエティやダイバーシティ(多様性)によって知識や知恵を育てていったのであり、多くの民族感情や多くの生活習慣も状況をとりこんで変化しっづけるものだという見方です。
 
 むろん、このような考えかたは森林型だけでは成立しません。そこにはときどき二者択一的なダイコトミー(二分法)も必要です。けれども、その二分法の頂点には唯一絶対なものはなくていいんです。
 こういうようなことに気がつきはじめで、やっと私なりの「日本」をハンドリングするメソッドに近づけるようになっていったんです。

<引用終わり>

 前半部分は、西洋哲学の世界を知っている人には理解が速いかと思いますが、その後は比較宗教的な話ですので参考になるかと思います。

 個人的には最終部分の文脈に私個人の先の「和魂・荒魂」の世界が重なるように思えるのです。

>二分法の頂点には唯一絶対なものはなくていいんです。<

どうしても唯一絶対を唱えたくなるものですが、日本の魂(こん)をみるとき唯一絶対の厳(いか)めしさよりも、「やんわり・ふんわり」でいて「風で払いのける」か、「削り取るか」それとも「押さえつけるか」を思うのです。

 消え去るものではなく、あくまでも残り続け、憑(つ)きつづけるものだが払拭はできる、そういう「日本の方法」を読み取るのです。

 まったくの私見であり、勝手な解釈ですが今朝はこんなことを書いてみました。

 このようなことを書くと題名に悩むのですが「方法日本」ではなくほとんど直感ですが「日本の方法・残り続けるもの」としてみました。


http://philosophy.blogmura.com/buddhism/ このブログは、ブログ村に参加しています。

http://blog.with2.net/link.php?162651 人気ブログランキング


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。