思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人間とは対義的な現象

2018年12月04日 | 哲学

 前回は対義語の話を書きました。そもそも意識したりそうだと認識すること自体が人間に起こる現象とするならば、人間とは対義語認識存在と言えるではないかと思うわけです。

 臨床哲学者の鷲田清一さんは著『<ひと>という現象学』に「思考とは言えないが、よく似た感受性の癖がわたしにはある。あるものを見ると、それとは逆のものを同時にその背後に見てしまうという癖だ。」と、序文に書いています。この序文の文章からも著書がどういう意図で書かれているかがわかるように思います。

 わたしも鷲田さんと同様な癖があり、わたしはどちらかというと聞くものに「そうではあるまい」と思いながら見聞きすることを見分していることがあります。

 思考する際に頭の中で対義語を背景におき、自己の思いを構築しているわけで、その差異の区分、選別の働きがあってこそ言葉とともに表現する自己が存在を現すのではないかと思うわけです。

 現実を経験しつつあるという時間の推移の中で、見る聞く等の五感の働きによりそれぞれの感覚における差異現象で物事をきわめ(極め・究め・窮め)ていると考えられるわけです。

 鷲田さんの著書の序文にはパスカルの『パンセ』の2つの断章が先の言葉と重なりように紹介されています。

断章358
 「人間は、天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようと思うと獣になってしまう。」

断章70
 「われわれの頭のなかには、その一方でさわると、その反対の方にもさわるように仕組まれた発条(バネ)があるのではないか」

 パスカルの自分の思いの表現がなかなか面白く、また、実に鋭く響いてきます。

 そもそも感覚というものは、無感覚状態があるからそれに対応し働き出てくるものとも上記の対義的な思考で行くといえるように思います。無感覚のままにあれば何事もない。日常が無意識の無感覚で推移し、意識すれば視点が生まれ何事かを物語るわけで喜怒哀楽はまさに目覚めのときの物語です。

 正さを大いに語るものは、正しからざるものを大いに強調しその正当性を語る。

 世に賛成運動という言葉よりも反対運動という言葉のほうが響き渡ります。

 消費税値下げ法案に賛成!

 そのような法案が提出されることはないので、在るわけはありません。

 社会進歩、時代の推移というものも対義的な現象という視点から見ると弁証法的な止揚のなる世界にも見えます。

 個人の現象という時の推移において、実存的虚無にさらされ、なす術もないときがあります。そのときに対義的な働きがひしひしと迫りくるのではないか。
 見えないものの中に、物語る何事かを感覚的に知る。

 生きる意味を問われる存在というロゴセラピー的な自覚に目覚める。

このような現象も対義語的な働きの中にあるのであるのではないか。

 存在それ自体、在ることの無の背景の働き。そこに意味が生まれる。意味とはあることの顕現の働きなのかもしれません。


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