思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

雑念と私と汝について

2019年03月29日 | 哲学

「雑念」というと、集中力が衰える原因と考えるのが普通です。辞書的には「気持ちの集中を妨げるいろいろな思い」などと説明され、「思い」とあることを見れば、真面目に考える私の中にあたかも別人のような私が不真面目な「思い」の姿で登場し、真面目な私を翻弄させているように見え、それを「雑念がわく」などと表現します。

 「なぜこんなことが、私に起きるのか」と悩むとき、「私は何か罰当たりなことをしたのか」と神罰の祟り思う私もいれば、「何かミスをしたのだろう」と考える私もいます。

 こう考えが起こるのは、平穏な日常生活に突然の苦難が生じ平穏な日常との対比から悩みが生じているわけで、平穏な日常で何も急変するような事態が起きていない時の私なるものの常態的な感覚的記憶背景があるからこそ、悩めるような身の上になった私が先の私の体感記憶との対比に曝され、その身の上の差異が悩める主人公である私を存在させるわけです。

 平穏な生活の経験が無ければ、今現在の苦難しか存在しないのですから、当たり前の日常が常態化しますので、悩む以前の感覚的記憶背景が消滅しない限り永遠に悩みはあり続けます。

 つまり悩みに悩む蟻地獄のような状態は、そもそも平穏体験があったことと、生まれながらに不幸と思う人も、その後の人生において他者の境遇と自己の境遇を対比させ、あの人のような境遇にあればと思う私と、今の現実にある私との対比によって生まれながらと詩的とも思えるような表現をしているだけです。

これは知らないことを知るからこそ知ることができるのと同様で、知らない前提があるからこそ知ったという体感があるわけです。

 知る機会が展開されるその意味の場には常に主人公の知らない主体が存在し、その念をもち続けながら知りつつある私を経過し、知った私を形成します。述語の変化によって主体の私も変化します。しかし、知ったことに気づくのは知らない私が背景に存在するからであり、私が私であり続け差異(その違い)を語れるのはそういう現われを成す存在であるからです。

 言葉を変えて説明するならば、私の思考する中では、思考する主体が述語をもって、私の考えを「そうではないか」と語りかけ、また別人の私が「このほうが正しいのではないか」と語りかけているようなもの。あたかも二重人格の私のようですが、互いの意識の分離、認識の分離があるわけではなく常に私は同一の私を連続させて私であり続けます。

 このような訳の分からないことを考えるのですが、私という存在の自覚は、私に対応する、私が常に寄り添っているからこそ私は私であると自覚するのではないかと考えているということです。

 私の存在とは、相依性の関係にある私が存在するからで、薬物依存などは依存しない私と依存する私の相互の対話での決裂の結果であって、薬物の薬害は依存しないという意思決定する私を破壊するという害ということです。

 くり返しの話になりますが、私の内に自と他があるようなもので、私は自の表現でもあり他の表現でもあるということになります。元々は生において一であったものが他の目覚めによって自とともに創造的に私を表現するようになりました。それぞれが物語る存在として相互依存していると考えられます。

 西田幾多郎著『善の研究』(岩波文庫・藤田正勝編)の第3編台9章善(活動説)に次のように書かれています。

 最も深き自己の内面的要求の声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳成るものはない。(同書p190)

 我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢には内面的統一なる者が働いて居るので、意識現象は凡てこの一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最も能くこの力を発表したものである。(同書p191)

 『善の研究』以降の先生の言葉に有名で難解な「絶対矛盾的自己同一」があります。今ある私という存在はまさに自他の私の内面的統一の働きの現われで、表現する私です。自他ではあるが絶対矛盾を抱えながら同一体としてこの場に成る者と理解できます。

 前回のブログでは、NHKドキュメンタリー - 震災ドキュメンタリー「あの日の星空」で語られた「悲しいくらい星がきれい」という言葉を心理学の視点から見つめてみましたが、悲哀の只中にいる私に、別の私が語りかえるようにささやいているように感じます。私は、その別の私を「汝」と考えたいのです。「汝自身を知れ」と有名な言葉を私は、無知なる自分に気づけという意味だと理解します。知らない自分に汝が語りかける、それが知に思えます。私と汝ははっきりと分離されているものでありながら本来的な一へと常に統合される形成体の持続です。西田先生の著に次の言葉があります。

「私に対して汝と考えられるものは絶対の他と考えられるものでなければならない。物はなお我に於いてあると考えることもできるが、汝は絶対に私から独立するもの、私の外にあるものでなければならない。しかも私は汝の人格を認めることによって私であり、汝は私の人格を認めることによって汝である。汝をして汝たらしめるものは私であり、私をして私たらしめるものは汝である。私と汝とは絶対の非連続として、私が汝を限定し汝が私を限定するのである。我々の自己の底に絶対の他としての汝というものを考えることによって、我々の自覚的限定と考えられるものが成立するのである。」(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ・上田閑照編』岩波文庫・「私と汝」p342)

 『善の研究』における「最も深き自己の内面的要求の声」とは後の論文における「汝の声」に相当するものと理解すると悲哀の現実における体験体としての私に、先に書いた自他の「他」は悲哀の現実体験と相依する満天の輝きの星という自然を観照し呼応するのです。その声が「悲しいくらい星がきれい」で、心の中でささやくのです。その時に不謹慎なのにと思う私も現れているのです。

 そしてこの「声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳成るものはない。」と語られているように思うわけです。

 何故にその場にいなかった私にも叱咤激励する星空を感じさせるのでしょう。

 今の私は、厳しい現実の中にいるわけではありませんが、「あの日の星空」に意味を問いかけられました。

 以上の話は、解離性同一障害を語っているわけではありません。誰にも二面性は持っているのは明らかな話で、あくまでも統一体の自覚の中でささやき合う私と私のことです。

 西田先生の語る「汝は絶対に私から独立するもの、私の外にあるものでなければならない。」は善し悪しの完全なる分離を意識できる己が明らかにあることを意味し、統合体の私がどちらかをチョイスできる一に成ろうと迷うわけです。

「まじめですか?」

 夏目漱石の『こころ」の先生はそう青年に問いかけました。

私はまじめか否か、多様なまじめさを考え、多様な不まじめを考えます。そして最終的に答えるならば多即一の答えを言うのでしょう。それは、また多様な私の顕現でもあるわけです。


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