思考の部屋

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真田の赤備え甲冑、実は武田の赤備え

2018年05月15日 | 歴史
 NHKの大河ドラマ『真田丸』が放送され昨年(2017)3月に長野市松代にある真田宝物館で公開された東御市(旧東部町大字和字東深井)の旧家深井家から発見された「真田赤備え」の甲冑の話が掲載されていました。現存する真田の赤備えは貴重なものという話でしたが、実は「武田の赤備え」ではないか、という研究者の新説が最近地方紙(信濃毎日新聞5月10日)に掲載されていました。


 


 この甲冑については個人的に興味があり、今回の研究者の発表は大変注目されるものでした。新聞記事には次のように書かれていました。(2018年5月10日信濃毎日新聞参照)。
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 東御市の個人宅で発見された赤い甲冑=2017年3月3日、長野市の真田宝物館
 真田か、それとも武田か―。東御市の個人宅で2016年に確認され、戦国武将の真田氏に関連するとみられていた赤い甲冑(かっちゅう)について、戦国時代に信濃を治めた武田氏と関連があるのではないか―との説が9日までに浮上した。研究者の調査で、より時代が古い可能性が出たという。甲冑や旗差し物を赤で統一する真田氏の「赤備え」は有名だが、武田氏にも「赤備え」の家臣がいたことが知られている。武田氏由来だとしても県内初確認となる貴重な赤い甲冑が、研究者らの研究意欲をかき立てている。
 甲冑は鉄製で、胸や背中に当てたとみられる五つの部分で構成する胴や、袖とこて、首元に当てる喉輪、ももを守る佩楯(はいだて)のそれぞれ一部が残る。いずれも表面には朱漆が丹念に塗られ、傷みは激しいものの赤色がよく残っている。
 東御市の深井家に伝わり、真田宝物館(長野市)の学芸員が2016年末に確認した。深井家の系図に、真田家につながる東信地方の豪族・海野一族の真田右馬允(うまのすけ)の名前があったことから、真田の赤備えとみられていた。赤備えは、大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)(大阪城天守閣所蔵)で、真田信繁(幸村)隊のいでたちとして描かれている。
 今回、別の見方を示したのは名古屋市の甲冑研究者、三浦一郎さん(60)。三浦さんは、甲冑の胴や腰回りの草摺(くさずり)の形から、作られたのは東国だと推定。胴の形やこての装着法が中世の形態で、武田氏が滅亡した1582(天正10)年の翌年に作られ構造が似た会津製の甲冑よりも「古い部分が多く見られる」といい、武田氏のものとの見方が強まった。
 三浦さんは、甲冑の各部位が全て同じ朱塗りであることからそろいの一式と推定。武田信玄の跡を継いだ勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた1575年の長篠の戦いの後、家中に甲冑などをそろえるよう命じたとの記録とも合致する―という。
 ただ、海野一族や真田信繁の兄信之の家臣に深井氏の名が見られる一方、甲冑が残っていた深井家と武田氏とのつながりを示すものは現時点で確認されておらず、研究者は確証を追い求めている。
 三浦さんは「特異な甲冑が製作当時のまま発見された意義は大きい。中世から近世にかけた甲冑の変遷の解明につながることを期待したい」と強調。真田宝物館も「武田の赤備えは武田氏の領国だった他県の地域に残っているが、信州からも見つかったとすれば興味深い」としている。
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 個人的にも興味深い話で、上田市塩田にある式内社生島足島神社に残る、戦国期に信濃国佐久平から小県地方に攻め入った武田信玄に忠誠を誓う「起請文」を思い出しました。
 多く残る起請文の中に永禄10年(1567)に書かれた『海野幸光等連著起請文』があります。この起請文の筆頭は「真田右馬助綱吉」で、海野一族等が連著され最後に「海野左馬亮幸光」と「左馬亮」がつけられ書かれています。



 注目したいのは、筆頭の「真田右馬助綱吉」で、赤備えの甲冑が保存されていた深井家の宝暦年間の過去帳には「真田右馬之亮綱吉(壽泉院眞相勸喜大善禅定門)」とその妻の名が書かれています。「すけ」という文字は古文書では、「允」「助」「亮」「介」で書かれることがあり、「之」という文字も時々に使われます。
 東御市のこの深井家では、過去帳からもわかるように家伝としてこの人物の裔孫(えいそん)としてきたものでこの赤備えの甲冑が今に残されていることを見るとそこには武田氏への忠誠の事実が浮かびます。



 この起請文の「真田右馬助綱吉」なる人物については戦国真田氏の幸隆の兄説があり、江戸期真田氏が海野氏からの直系の系図を作成したことからも当初戦国期前の海野家臣へ姻戚の事実が読み取れます。
 そして「右馬助」という呼称ですが、海野家最後の家長海野棟綱(この人物は真田幸隆に忙殺された説あり)で、この家臣が深井右馬助棟廣であったことは高野山蓮華院に残る古文書で確認されています。



 その後、戦乱の世が終わり真田信之が上田から松代に移った際、家臣団の一部を冷遇し内48騎がついに信之に不満を抱き帰農した事実があります。海野家の旧地に帰ったのが深井右馬助で上記の赤備えの甲冑はこの右馬助の子孫の深井家です。
 歴史小説は史実をある程度をふまえて書かれていますが、地方史の表に現れてこない時の流れあります。真田氏の『真田通記』には、真田氏は、海野氏の直系で、清和天皇の貞元(貞保)親王の裔孫であるとし、親王の妻は海野荘の豪族深井某氏の娘としています。
 これも不思議な話で、なぜそう書かれることになったのかいまだに疑問です。
 この深井家に残された赤備えの甲冑は、「真田右馬助綱吉」をはじめとした海野一族の武田氏に従属を忠実に示す歴史資料に思われ、今後の研究者の研究に注目したいと思います。

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