思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「もの・こと」(論)から主人公になるために

2019年04月19日 | 哲学

個人的に興味をもつブログに「もの・こと」(論)が書かれていました。最近の思考課題の一つとして自己の二重性といった心理学にも関係する問題に関心を持っていると、この「もの・こと」論がかかわってきたので、ブログ記事を読んで世の中は共時的な「もの・こと」にあふれていることを実感しました。そこで今回は思考視点を「もの」「こと」論から展開してみようかと思います。

 過去20年あまり書き綴れば多少満足のいく文章も書けるかと思うと一向に進歩しません。「もの・こと」論は過去に何回か書いていますが、途中で関連する言葉に捉われ網の目のような話になってしまうのが現実です。したがって漏れの多い文章なわけです。

 漢字の「物」と「事」の二字を組み合わせると「物事」は訓読みで「ものごと」となり、「事物」は、音読みで「ジブツ」と何気なく私は読んでいます。決して「ブツジ」とは読まず「こともの」とも読みません。私的な疑問としてこの「こと」は頭の片隅にあるわけで、そういう「もの」だと納得すればよい「こと」なのにどうもそういう疑問癖は抜けません。

 さてこの二語、意味的にはどうかということで、サイト検索するとデジタル大辞泉では、

「物事」は、
意味: 物と事。もろもろの物や事柄。「物事の加減を知る」「物事の順序をわきまえる」

「事物」は、
意味: 1 さまざまな事柄や物。「事」に重点の置かれる「物事」に対して、「物」に重点が置かれる。 2 訴訟にかかわる事件とその目的物。

とありました。

●「事」に重点の置かれる「物事」

●「物」に重点が置かれる「事物」

ということらしいのですが、個人的な感覚として「事物」のほうが品物、物質、事件、事象などの範囲的な、まt固まり的な印象が現れます。一方「物事」になると「事」(ジ・こと)という、まさにどういう「こと」なのか感覚的にその意をつかむのが難しいのです。

●もろもろ(諸々)の物や事柄の「物事」

●さまざま(様々)な事柄や物の「事物」

どうした「もの」かと悩むわけです。

  ここで仏教的な話から西田哲学に進みたいと思います。

 曹洞宗の開祖道元禅師は、『正法眼蔵』の中で「祖席の英雄は、臨済・徳山と云う。しかあれども、徳山いかにして、臨済におよばん」と言って徳山よりも臨済の方が優れていると言われていますが、臨済にも徳山にもおのおのその特徴がそれなりに善いところはあると思っています。ここで後者の徳山の話をしますが、徳山が北宋の真宗景徳元年(1004)に大成した「景徳伝燈録」の中に「無事則勿妄求而得亦非得也無事於心無心於事(ぶじなればすなわちみだりにもとむるなかれ みだりともとめてうるもまたうるにあらざるなり)という言葉があります。  

 この話は時々ブログにアップするのですが、この言葉をもとにした、西田幾多郎先生の碑文が、安曇野市豊科高家の旧高家小学校跡、現信濃教育会生涯学習センターの近くの公園にあります。  

 西田先生がよく信濃教育会の講演に来られ関係が深かったことから碑文を依頼し建てられ、今に残っているわけです。 

碑文はかなり大きなものでそこには、

 無事於心無心於事   
 物となって考へ物となって行ふ
        西田幾多郎書

 と徳山の言葉とともに西田先生の言葉が刻まれています。

 前半の「無事於心無心於事」は、『心(しん)に事(じ)なく事に心なし』と読むそうです。 

 西田幾多郎先生はこの言葉について、著書の中で  

 「自然法爾とか無事於心無心於事とかいふ東洋的無心とは、自己がなくなるとか非合理的とか云ふことではない。物を自己となすと云ふに反して、自己が物の自己となることである。自己が絶対者の物となることである。神人合一と云ふことは、人間が神となると云ふことはではなく、人間が神の物となることである。自己は何處までも自己である。唯それは絶對の事物となるのである。故に物となって考へ、物となって行ふと云ふ」(『西田幾多郎全集』第十巻)

と書いています。そして西田先生の友人の鈴木大拙先生は、著書『無心と言うこと』の中で、

 「無事於心 無心於事・・・心に事なかれ事に心なかれとでも訳しませうか。心に事なかれとはぼんやりして、ただ木石のようなものかといふと、手を動かし足を動かすといふことがあるのです。一晩明ければ挨拶もする。御飯も食べる.或は喧嘩もするかも知れぬが、その事に於て心なしで、かうしたらかういふ功徳があるだらうとか、かういふ能率があがるだらうか、かういふ旨い具合に行ったとか、さういふことは何もない。心に何等のはからいがないのが、実際に仕事をやるときに無心であれといふことです。」

と同じように「無事於心 無心於事」について語っています。

 郷土誌にはこの碑文について、戦前の文面ですが

 「物とは歴史的世界に於ての事物である。我々の自己といふのもかかる現実の世界に於ての事物に外ならない。『物となる』とは我々歴史的現実の中に自己を没することによって自己を尽くすといふことであり、自己が物の世界に入って働くことである.したがってこれは物の真実に行くといふことでなければならない。己を空しくして物の真実に徹していくことは日本精神の真髄である。  所謂撫心とか自然法爾(註=哲学上のことば、永久不変の法則、自然そのもの)とか柔軟心とかいふ我々日本人の強い憧憬の境地もここにある。人間そのものの底に人間を超えたもの、それが『事に徹する』といふことであって、事実が事実自身を限定する事事無礙(じじむげ)の立場は、どこまでも『物となって見、物となって考へ、物となって行ふ』ところになければならない。即ち徳山の『無事於心無心於事』である。」

などと紹介しています。  

 個人的に「物」という漢字はどうしても物質的な固形的なイメージがわいてしまいますが、西田先生は「もの」をすべて「物」という漢字で表現します。「神人合一」という場合に「人間が神の物」と「物」と書いています。しかしこれは神の所有物という意味ではなく「命に向かう」ような高揚的一体感、無にして一体とでも言ったところの「もの(物)」表現のように考えています。

こういう話をする人を耳にすることがあります。  「この世界に本当の意味で存在するのは『物』だから、人を道具として利用しても構わない」

 カントは「利用してはいけない」と語りましたが、現代社会は、こういうものの見方をする人が多いような気がします。人体ですから形成された形ある物(ブツ)に見えて当然ですが、自分自身も物として感じてしまっている、ということです。カントが言うくらいですから、そう考えてはいけないということではなく、そういう思考展開をするとという話です。

 「道具として使われている」「従うための道具とされている」

 以前ブログで「令和に支配される」と国を訴えた弁護士さんのことについて話題に取り上げましたが、まさに彼は自分は支配される物と見ていると言えるように思います。

 西田哲学で言うならば包む側である「支配される」述語が、包まれる側の「私」主語をそもそも置いているということです。つまり「支配」という言葉を語り始めたときからすでに彼は存在する、ということです。

 支配的、封建的、権力的・・・等の言葉を想定する述語においては必ず主人公がいるということで、そのような状況(こと)に「ある」と考える者やそのような状況(こと)に「する」者がいるわけです。そして全くそのように思ってもいない人が「令和の支配」という言葉を聞くといつの間には支配に包まれる側に変容してしまいます。

 そもそも人間は命ある生命体として実存します。そこに多くのものを着飾ります。それは事実そのままが多様に変化し、様々な事物世界を創造していきます。人々は諸々のもの的世界に「物」を作り上げていきます。しかし、物は働きの内に物になるのであって重要なところはその働きです。働きの内に人は「人成り」になると思うのです。

 もの(物)となって考へもの(物)となって行ふ 物とは即ち主体そのものです。「~である」「~になる」存在としてその主体たる主語の私は自らを限定し「~である」存在として顕現します。様々な人成りの特性をもって事物として存在する。

 幸せを求めるものは幸なる姿を描き、夢を実現したいものは実現した姿を描きます。「そうありたい」「そうなりたい」と描き出すのです。

 そのように描き出せるのは、同時に正反対の状態を内に持つ(描きだしている)からで、

「幸せに思えない事」「そうなれていない事」

という思いの描きが影のようについて回るのです。そのような働きの内にあるからです。

 私の考えるところは、心理学で語るW・ジェームズの自己の二重性のように「I」と「me」がそれぞれの主体(主語)が述語で思い描いているのではないでしょうか。 事的世界即ちリアルな現実を顕現するには明確なる主語的自己を主人公にした自覚のもとに述語で表さなければなりません。事に限定する主語たる主体にも注目すべきなのは確かにあるように思うのです。

 反省的であったり、自省的であったりするのは自戒する自己と自戒無き自己が表裏(相依)に現れ理性を求めようとするからであり、喜んだり悲しんだりするのはそれぞれの感情を意識する自己が表裏(相依)にあるからであるように思う。

 選択する私は選択しない私を押し切って選択する。

 現在パチンコ依存症、、競馬依存症などの対策が検討されているということです。施設出入り口に顔認証システムを導入し家族などから要望があれば入場規制をするようなことも検討しているようです。

 止むに止められない依存症の私。止めたい私とやりたい私の葛藤が病的に一方の主人公の私がもう一人の私を抑圧してしまうからです。これが心のシステムが壊れた病(やまい)の状態なのだと思う。

 「人は本当のいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

以前ブログで宮沢賢治の物語から引用した言葉です。理性的とはこういう事なのだと思う。主人公がこのような理性的な思考にあるとするならばどうだろうか。

 「考えないではいられない」主人公です。

西田先生は、「私は述語である」と語り「述語に包まれる私」と「包まれる側の私」があると言います。それを基にしたのが先の思考展開です。 「事に徹する」「無我の境地」というものは「包まれる側」が自覚において今まさに、直中(ただなか)の事象を限定していくことであり、また働きの中で邁進(突き抜けて行く)することに思います。

もの(物)となって考へもの(物)となって行ふ という言葉の「ものとなって」とは統合的自己の意識が、徹する心境において働くということだと解したいのです。

 雑念無きを無我の境地というならば表裏で展開される二重性の自己意識が統合されて述語に包まれるということではないでしょうか。これこそ事実そのままの体得のように思います。

 主人公に徹する。 「本当のいいことが何だかを考えないでいられない」主人公になる。

 長々と語って「もの・こと」論から真の主人公になる話になってしまいましたが、この辺で終わりたいと思います。


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