ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(6) 仁斎・徂徠・宣長
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/aff3dbf5e4e08a0f2fd5dab08bb9b598
では、中国文学者吉川幸次郎先生の文章を引用しましたがその中に、
>人間の現実にそむくとして、まっこうから大きく否定したのは、本居宣長である。宣長によれば、凶悪は吉善とともに、必ず人間に存在する。善が人間の一つの必然であるとともに、恵もまた人憫の必然であり、幸福があるとともに不幸があるのこそ、人間の現実であると、道破する。<
という本居宣長の「善」の立ち位置がありました。
この「善」については「善心(うるわしきこころ)」が含まれます。
この善心は、良心とともに過去ブログをみると、
善心(うるわしきこころ)(2009年02月13日 | ことば)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/773ffadb454766a71b95b098622efa7d
良心(りょうしん)(2009年02月15日 | ことば)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/406ab6036e2c7b482c74dccf1c01c450
で言及し、
ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(1)・一元論二元論の世界
(2010年10月22日 | 哲学)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c189471da3c0000fec0db24775ec114c
で古事記の世界における天照大神(アマテラスオオミカミ)とその弟速須佐之男命(スサノオノミコト)の関係で言及しています。
しかし古典を含む日本宗教(神道の意味)の中における大事な言葉、それも内心の正・負の概念や善・悪の概念と異なる言葉を同一場で語っていませんでした。
その言葉は聖徳太子の言葉で有名な、日本人の好きな言葉で「和(ワ)」です。この発音は呉音であって「やわ・らぐ」「なご・む」と訓ぜられます。
今夜は、日本宗教の立場からこの言葉に言及したいと思います。
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伊勢神宮へ行くと内宮本殿の北西に荒宮があります。天照大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮で、本宮が和魂(にぎみたま)が祀られているところになります。
平和な今の日本では、本宮のみを拝し、荒宮の方は立ち寄らない人が大半ではないかと思います。
和御魂、荒御魂と書く場合もあり、祭られる神社も異なる場合があります。須佐之男命の場合はその例が多いようです。
これまでに和魂・荒魂は過去のブログで話の中に織り込んだりして言及してきましたが、ここでまた改めて
人間この過ちやすきもの
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/505741b59acc246697929f29bc3a8753
神と霊(タマ)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/8bc344dade24e91f9f66a103d240f6fd
詠歎の美学とクオリア
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/8bc1fe82b53429229ee886e7498b54db
日本古代精神史における一元的思考
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/72518198bb0c0683925cf62017b5a27a
いま、この瞬間
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/320e9f559e6b90839d79e7369de7bdfe
<に「にぎ」と言う古語>
ここで和魂という古語を辞書で調べてみます
○ ベネッセ古語辞典
にき-たま【和魂】[名]温和な霊魂。=和御魂(にきみたま)。
「王の和魂逢へや豊国の鏡の山を宮とさだむる」(万・3-417)
にぎ-みたま【和御魂】[名]温和な徳をそなえた神霊。
例:和御魂を請(ね)ぎて王船(みふね)の鎮めとしたまふ(記・神功)
対:荒御魂(あらみたま)
○ 大修館書店古語林
にきたま【和魂・和霊】[名]「和御魂(にぎみたま)」に同じ。
例:大君の和魂あへや(万・三)
用例の『万葉集』の原文は「親魄」。むつたま(睦魂)と読む説もある。
にきみたま【和御魂・和魂】[名]《平安時代以降「にぎみたま」とも》神霊の温和 的・調和的・静的な側面。
例:大神の和御魂はしづまりて(出雲風土記)
対:荒御魂
古事記に見られる言葉ですから『古事記事典』(尾畑喜一郎編 桜風社)を調べますと、
【荒御魂・和御魂(あらみたま・にきみたま)】
神霊の作用を荒々しい動的な面と、おだやかな静的な面とに分けた言い方。
となっています。
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<「和」という古語>
古事記や万葉集に「言向(ことむ)け)という言葉があります。神武東征の段・倭建命東征の段などに国津神の荒々しく乱暴な神を天津神に帰順させる場合に使用する言葉で、
言向けは、「言葉によって相手を従わせる。説得して服従させる。平定する。」という意味で
荒ぶる神、またまつろわぬ人どもを言向け和(やは)せ
などと使います。この「和せ」ということば「やはす」の活用ですが、この言葉は、両辞書とも
やは-す【和す】[他サ四]やわらげる。平和にする。帰順させる。
という意味の言葉です。
そもそも「和」という「にき・やは」もともとどこから来るのでしょう。同じように調べると、
にき【和】[造語]《「にこ」と同じ、語根。中古以降「にぎとも」》温和な、やわらかな、細かい、ととのったなどの意。
となっています。
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「荒(あら)」は、「和(にき・やは)」に対する言葉ではありません。善悪のような相対的、反対語の関係にある語ではありません。
同一場における、荒れであり、和みです。これは感覚的なもので、反対の力学的な関係にあると思われる方もおられる方もいると思いますが、それで良しとは言い難いものがあります。主客未分とも異なるもので、純粋経験の段階ではいまだに掴めない、独特な日本語の不思議さがあります。
まったくの私見で、それなりに言及はしていますが最近は、「やまと言葉」ですので「もの的思考」で動的に感覚でつかむしかないのではと思っています。
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