思考の部屋

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「目に見えない皇帝が哲学」という言葉が意味するところ

2019年02月27日 | 哲学

 また「新実在論」のドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが語っている話になります。この話は、『マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書)に書かれている話で、関係したテレビ番組でも話されたものです。
ロボット研究家の石黒浩さんとの対話の中で、
「今のドイツでさえ、1989年からの姿です。国境を変え、共産主義独裁政権を統合しました。そのため今のドイツは社会主義色が強いのです。・・・それで私たちは厳格な論理的構造を持っているのです。なぜなら現実はまったく統一されていないからです。ドイツは概念レベルのみので統一されているのです。」

このように語り、そこで石黒さんが、
「ドイツに対してそのような認識は持っていませんでした。ドイツはある意味日本のように同質性が高いのかと思っていました。」

と話すと、ガブリエルさんは、
「そうです。実際のドイツ社会はまったく同質ではありません。」
そして石黒さんが、
「でも概念を共有することで違いを埋めようとしているのですね。」
と話すと、
「ええ、日本には天皇が存在していて会うことも可能ですよね。皇居もある。でもドイツには皇帝がいないので、ドイツ観念論主義者は“目に見えない教会”が必要だと言います。ですから私たちには「目に見えない皇帝」があります。その“目に見えない皇帝”が哲学なのです。」

この話が、今回書くに至るのですから記憶に残る印象的な話だった分けです。
 即位30年の宮中茶会が26日皇居・宮殿で開かれ平成に活躍した著名人や、皇室ゆかりの人々が招かれたようです。式典での叡慮(えいりょ)や美智子妃殿下の補佐役の慈愛の姿はなんとも表現できない安寧を感じました。

 このような光景を見てある何がしかの感慨を覚えます。ある人は安らぎを、ある人は滑稽の感情を抱くことでしょう。

 先に「滑稽」から入りますが、これは拝見そのものに封建制の名残の抑圧された庶民の姿をあたかも称賛しているかのごとくに作り出す場と捉え「滑稽」を抱くのかもしれません。
 一方、「安らぎ」は善き心、悪しき心の二元的分別を行うならば明らかに「善き心」の顕現を見ているのだろうと思います。

 私は、上記のガブリエルの「目に見えない皇帝を感じる」という話を知り宗教的実存という言葉が浮かんできました。個人的理解で言うならば実存のバックボーンとしての宗教、人間存在の拠り所としての宗教性の現われともいえるものです。
 哲学者西谷啓治先生は著『ニヒリズム』の中で、
 「人間の存在そのものに目標を与え、いかに生きるべきかという方向を示すもの、存在するということの意味がどこにあるかを教えるようなもの、すなわち一言でいって人間存在の根柢にかかわる形而上的なものであるならば、そういう拠り所の喪失は、歴史の底に、そしてまた歴史に生きる人間の底に、虚無の深淵を開いてくる。」
と語っています。
「人間の存在そのものに目標を与え、いかに生きるべきかという方向を示すもの、存在するということの意味がどこにあるかを教えるようなもの、すなわち一言でいって人間存在の根柢にかかわる形而上的なもの」
 ここで語られている「もの」とは、「こと」に対する「働き」です。そしてその働きは「拠り所」「依処」として本来あった、ということです。

 形而上的な話です。原始仏教典パーリ聖典『長部』大般涅槃経に「法灯明・自灯明」という言葉があります。釈尊亡き後は「法を依(よ)りどころとし、自らを依りどころとせよ」と釈尊が言われたと言います。
 思いの念で描かれる世界観、まったくの形而上の話で、概念話です。善き心の永遠性の保持というよりも保守かもしれません。

 根本に同質性がない空間、風土という同質性はないということです。
 「目に見えない皇帝」が哲学なのです。
と語ったガブリエルの教示は何なのでしょうね。

 「国民と心を共にし、苦楽を共にする」存在、「日本の平和を希望します」という叡慮に戦争への歩みを進めることができるのだろうか。大衆は拳(こぶし)をあげ、同質性は乱れに乱れていきます。

 画一的に抑え込まれることへの反感は誰しも持つ心、だからといって哲学の心を失ってはならない、ある意味教示は啓示なのかもしれません。


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