「理不尽」という言葉を目にしました。この言葉の意味は一般的な辞書には、「道理をつくさないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。」と解説され例文として「理不尽な要求」「理不尽な扱い」が書かれていました。
理不尽の反対語はあるのかと対義的な思考で考えると「理を尽くさない」の反対ですから「理に適う」こと「道理に合う」さまを言うのではないかと思います。
私もときどき「理(ことわり)」という漢字を使うことがあります。理にあっていないという表現は個人の意に合わない、世間の意に合わないという文章でその思いを述べているわけです。
目にした文章は「学校の理不尽な校則や指導を調査」という文頭から校則や教職側の所作に意に反する不当なものがあるという確信において述べられています。
総じていうなれば時代遅れの、世間認識が甘い教育現場ということになるのでしょうか。
人間心地よさのただなかで自然の恵みに満たされ生きられたらどんなに幸いであろうか。
と考えるのですが、まさに無常観を意識します。
世の中は流転する。
心地悪さがあるから心地よさが認識され、そのような事態がくり返されるの現実、そう思う時に「流転」という言葉が浮かび、その言葉が使う私に意味を問います。なにゆえにこの言葉を使うのか。これもまた一般的な辞書の意味解釈ですが、
1 移り変わってやむことがないこと。「万物は流転する」
2 仏語。六道・四生の迷いの生死を繰り返すこと。生まれ変わり死に変わって迷いの世界をさすらうこと。「流転三界中」
と解説され類語は「輪廻(りんね)」とありました。私の思うところと重なり、言葉としてある以上、そのように思う人は大勢いるということです。
話をはじめに戻しますが、理不尽なことと思うこと、自己の内心に描くこととは異なることが世の中には確かに多いように私も思います。
髪の毛を茶髪にすることの禁止、生まれつき茶髪の子を黒に染めさせる指導。
善しとするその時点が「時間よ止まれ!」の一声で永遠に固定されるならばと夢想したところでそれは不能であることは確かなこと。
自己の正しさが万人の正しさであれば・・・カントのようになってしまいそうです。
理不尽な事と語る方の根底にある基準は、現代社会の趨勢、傾向であり、社会的相当性、客観的相当性であって、これを逸脱するノスタルジックな、封建的な指針には断固と拒否的態度を貫かねばならないという心の働きがあるようにみえます。
社会もまた対義的な現象といったところで流転は空間と時間の中で弁証的に止揚し続けるようなもののようにみえます。
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