思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

来たらざる未来からの足音の啓示

2019年01月07日 | 哲学

今年も残りわずかとなりましたという文頭で書き始め、結局年を越え新年あけましておめでとうございます、に改めようとしている間にすでに1週間も経過してしまいました。

昨年の暮れは身近に葬儀があり死ということを意識することになりました。死者の仰臥の姿、寝姿を見、もう語らぬ彼の人を見てそれが死だと思い何事かをそこから意識しているわけです。

意識していることそれは何なのか。自分にも必ずおとづれる事実、しかしそれは実感を伴うものではなくあくまでも想像するわが身の仰臥、寝姿であり私なる人格体はもうそこにはいません。

身体の衰え、人格は日々その様態を変え、他人から見れば死する数年前の私と同一人物とは見えないでしょう。

メメント・モリ(Memento mori)というラテン語の言葉があります。『詩編』の第90第12節の「我々におのが日を数えることを教えて、智慧の心を得さしたまえ」という言葉で、よく「死を忘れるな」という言葉で語られます。

年を重ねるごとに着実な死の足音が聞こえてくるような気がしてきました。詩編は何を語ろうとしているのか、何をわれわれに説いているのか。生への執着に翻弄し、魂なるものの永遠性に翻弄する者への啓示でしょうか。

命をロウソクの灯りに例えることがあります。ロウソクの長さはその人の寿命、それを長いものと交換することは誰にもできないとこととなっています。ロウソクの炎の揺らぎを見ているとあくまでも感覚的なものですが鼓動に揺すられる身体の微動を感じます。

生死という言葉のように生があるから死があるのであって、どちらか一方が単独であるのではないことは確かなことです。「生」はこの世に誕生しわれに気づいたときに、はじめてその生なる言葉を知り、死は他者の死なるものの終焉の過程から「死」なる言葉を知りました。

生と死の大きな違いは、生は偶然で、死は必然であるという人もいます。生誕は直接私自身が原因で生じたものではなく、それに対して死は私自身の健康管理の不適が原因したり最悪自決的な決定打により起きる場合があり事故、自然災害もあります。

病死であろうと自死であろうと存在の自覚は「死」なる事実があってこそ感得されることで、来たらざる未来の「死」があるからこそ「生かされている今」が実感されるのではないかと思います。言葉を変えれば現実存在における生きているという表現そのものが終焉を前提に語られていることは確かではないかと思うということです。

詩篇における「我々におのが日を数えることを教えて」という言葉は何を言うのでしょうか。単純に累積的日を数えることのようには思えません。終焉のある時点から逆算的な数えのように思われ地下ずく足音は未来から聞こえてきます。

 哲学者の田辺元は晩年『メメント・モリ』という小論を書いています。彼はその中で、

 この言葉の深き意味は、旧約聖書の詩篇第90第12節の「われらにおのが日をかぞへることを教へて、智慧の心を得させたまへ」に由来するものと思われる。けだし人間がその短きこと、死の一瞬にして来ることを知れば、神の怒りを恐れてその行を慎み、ただしく神に仕へる賢さを身につけることができるであろう、それ故死を忘れないやうに人間を戒めたまへ、とモーゼが神に祈ったのである。その要旨はがメメント モリといふ短い死の戒告に結晶せられたのであろう。・・・・

 と語っていますが、絶対確信の超越的絶対者を啓信する者だけではなく足音に耳を傾ける年齢になればおのずと何かが問われ解すべき機会が与えられるように思われます。
 田辺先生は『西田先生の教を仰ぐ』(1930年)の中で

「唯私の疑う所は、哲学が宗教哲学(プロティノスの哲学を宗教哲学という意味に於いて)として、最後の不可得なる一般者を立て、その自己自身に由る限定として現実的存在を解釈することは、哲学それ自身の廃棄に導きはしないかということである。」

と西田哲学を批判していました。戦後は「死の哲学」が語られ、

 「大乗仏教の中心概念たる菩薩道というのはこれにほかならない。これこそ、『死の哲学』に近きキリスト教にさえ欠けるところの、絶対無の徹底であると思う。」

となり、

 「生死が自然現象の如く客観的事件として存在するものでなく、あくまでも個々の実存的主体に対して自覚せられる媒介事態であるのみならず、生と死とは、前者の終末限界として後者が前者から予想せられるところの事象であるに止まらず、自ら進んで生の執着を放ち棄てれば、かえって死が生に復活せしめられ、愛に依って結ばれる実存間において、それが実存協同として自覚せられ、死せる先進者の慈悲は生ける後者にはたらくことが実証せられると同時に、その感謝報恩のため、更に自己の後進者に自らの悟得せる真実を回施し、その後進者をして彼に固有なる真実を語らしめる結果は、疑いもなく死復活せる生を本質的に喜びあるものたらしめる筈である。もし果たして「死の哲学」の真実がかかるものであるとするならば、「生の哲学」の窮境を打開する路が、ここに見い出されることは否定できない。」(京都哲学撰書第8巻「田辺元」メメントモリp383-384から)

と語るに至りました。

 絶対矛盾的自己同一なる西田幾多郎先生の造語について「最後の不可得なる一般者を立て、その自己自身に由る限定として現実的存在を解釈することは、哲学それ自身の廃棄に導きはしないかということである。」とその懸念を語っているのですが、西田先生の死生観は悲哀の哲学から確実に足音が聞こえている現実存在の明示化に思えます。

 兎も角も来たらざる未来からの足音、それが今を限定し変容を促す。

 「智慧の心を得さしたまえ」という詩篇の意はそういうことではないでしょうか。


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