鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その8

2015-02-01 06:19:24 | Weblog

 田原駅行きのバスに乗ると、ほとんど乗客のいないそのバスは、今まで私が歩いて来た道をたどるようにして田原へと向かっていきました。

 「高松一色」バス停を過ぎてからバスは左折せず、「高松」バス停まで直進してから交差点を左折し、「高松北」交差点を過ぎ、「大久保交差点」で右折して田原市街へと入っていきました。

 「高松」バス停や「高松」交差点のあるところが、かつての高松村の中心地であったことが、このバスのコースからわかり、「高松北」交差点で直進して「高松一色」へと出た私のコースは、おそらく崋山が歩いたコースではないと判断しました。

 崋山は「大久保村」で左折して赤羽根方面へと向かい、太平洋に面する高松村へと出て、そこで右折して赤羽根へと向かったのです。

 崋山が遅めの昼食を摂った「冨士見茶屋」は、その高松村の街道筋の見晴らしのきくところにあったものと思われました。

 渥美病院前に到着したバスから降りて、その駐車場に隣接する「道の駅 田原めっくんはうす」へと戻り、車に乗って、宿泊先へと向かいました。

 翌朝、車をまず「高松北」交差点まで走らせ、その近くの空き地に停めて、「高松北」交差点から「高松」経由で「高松一色」まで進み、そこから「高松北」交差点に戻ってくることにしました。

 「高松北」交差点を出発したのが8:09。

 「高松保育園」、「高松小学校」を右手に見て、「大日川」を「中村橋」で渡り、「高松」の交差点に出たのが8:20。

 傍らの電柱には、「ここの地盤の高さ 海抜25.3m 高松町中村」と記された標示がなされていました。

 国道42号は、赤羽根の中村の場合もそうでしたが、海抜25m前後のところを、海岸からやや離れ、そして海岸に平行して延びているのです。

 その「高松」交差点から「高松一色」へと向かいました。

 崋山たちが昼食を摂った「冨士見茶屋」はどのあたりにあったのだろう。

 「冨士見茶屋」とい名前から、この茶屋からは天気がよく空気が澄み切っていたならば、富士山が見えたことがわかります。

 方向的には国道42号が浜松方面へと延びているその延長上に見えたものと思われますが、街道脇に連なる集落からやや離れた道筋にその茶屋はあったものと思われます。

 「高松」から「高松一色」へはゆるやかな坂道となっており、右手に近付いてくる丘陵の裾あたりにその「冨士見茶屋」はあったのでは(「高松一色」の交差点あたり)、とも思われましたが、確かな根拠もない推測に過ぎません。

 崋山たちも、その茶屋から富士山を見ることはできなかったのでしょう。

 富士山の向こうにある江戸を、富士山が見えるという方向を眺めながら、崋山は意識していたかも知れません。 

 「高松一色」交差点に至ったのが8:33。

 そこから右折して「高松北」交差点の近くに停めてあった車に戻り、そこから「道の駅 あかばねロコステーション」へと車を走らせました。

 「道の駅 あかばねロコステーション」の駐車場に着いたのが9:01。

 そこから伊良湖岬まで、歩いて行くことにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)



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