鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その12

2015-02-11 06:33:22 | Weblog
医福寺を出た崋山たちは、多墓山(たばか)山という山に沿って西へと向かいました。たいへん鬱蒼と茂った松山があり、これはかつて戸田氏の一族である一色一郎という者が住まったところであるという。この山の麓を辿って行ったのだが、ただ田んぼと松林が広がるだけ。和地村の枝郷に一色村、川尻村というものがある。川尻川という川が流れていて、この川尻村で海に注ぎ込んでいる。川のたもとに茶店があり、この川を境に田原藩の藩領は終わりとなり、川向こうの小塩津村からは他領である。崋山たちはこの川尻川を越えて田原藩領外へと歩を進めるのですが、その茶店からの風景だろうか、崋山は「和地川尻」というスケッチを描いています。このスケッチを見てみると、中央を右から左へと流れているのがおそらく川尻川であり、右手前から川尻川へ、また川尻川から左中央の丘陵の間を延びていくのはおそらく街道であると考えられます。川には橋は架かっていないから、旅人は浅瀬を渡って行ったものと思われる。前に記したように、現在ここには古いコンクリート橋である「かはしり橋」が架かっており、そのすぐ上に「川尻橋」、そしてその上流に「新川尻橋」が架かっています。古いコンクリート橋である「かはしり橋」の向きを考えてみると、この道筋が旧道であり、「新川尻橋」は新しく切り拓かれた国道42号に造られた新橋であると思われました。とすると、私が「和地」の交差点から右手に大きな観光農園を見て歩いて来た道(国道42号)は、『参海雑志』に記される崋山たちが歩いた道ではなく、「和地」の交差点から山(多墓山か)の南側の麓を通って、この古いコンクリートの「かはしり橋」に出てくる道筋であるということになります。崋山によるとこの山は高い山ではないが小松が生い茂っている山であり。山の麓も松林であり、崋山たちは松樹の深緑の中を歩いて行ったことがわかります。川尻川は用水として利用できるような川であるけれども、山々のために十分に利用されず、ただこの村でだけ田畑の灌漑に利用されているだけである、と崋山は書き留めています。従って、崋山の「和地川尻」に描かれている山は「多墓山」ではなくて、川向こうの「小塩津村」の北側にある山(名前はわからない)ということになります。 . . . 本文を読む