鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その13

2015-02-15 05:41:34 | Weblog
小久保政右衛門は才覚のある者であって家業に専念し、特に漁業に精を出し、網船を多数持っているとのこと。それゆえに財産を蓄え、村の人々を救ったり神仏にもよく仕えたりと、たいそう真心の深い行為が多いために、おのずと家も栄え、本家である小久保三郎兵衛の家も再興させることができたのだと、崋山は記しています。この崋山の小久保政右衛門という村人への高い評価は、私に武州押切村の持田宗右衛門に対する崋山の高い評価を思い出させます。崋山が宗右衛門に残した手紙の一節は以下の通り。「たゝ一(ひと)ひらのまこゝろをもて家のほろひむとするをおこし、人のあやふからんとするをたすけ、まして君のため親のため、神にいのり仏にたのみ、たゝこのこころをもて画(えが)いたるやうに身をもてるなり。今其家訪(おとな)ひしに、その子もうまこもいとまめやかにつかへ、とむるハあらされとも貧ならず。家の内、春の日乃のとやかにむつみかたらひ、おのがあつかる所乃村々さへ愁を訴ふ事たになしとそ。されハ其道をふむ事は、我か及(およば)ぬかたそいと多かれと、心何となくうれしかりけり。」(句読点は鮎川が付け加える)ここでも、「一ひらのまこゝろ」や、困っている人を扶助すること、神仏に祈ることが、崋山の評価するところとして出て来ています。であるがゆえに、家の中は春の日射しのようにのどやかで和やかであるし、名主として預かる村においても訴訟が発生するようなことはないのだ、というのです。「一ひらのまごゝろ」で行動を一貫するという点においては、自分(崋山自身)も及ばぬところが多いとも崋山は言っています。堀切村において、崋山はあの武州押切村の持田宗右衛門と共通する人物と出会ったのです。おそらく鈴木喜六と崋山を歓待した小久保三郎兵衛家には、その政右衛門もやってきて、まるで「春の日」のように穏やかで和やかな雰囲気が満ちあふれていたのでしょう。崋山は『参海雑志』にわさわざその小久保三郎兵衛の住居のスケッチを描いています。 . . . 本文を読む