鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その11

2015-02-09 05:40:32 | Weblog

 この和地村の医福寺という曹洞宗のお寺は、堀切村の曹洞宗常光寺の末寺。たいそう貧しいお寺なので、昔から人が住んでいた時もそうでない時もあったため、開山も開基もはっきりしていない。

 ただかつては曹洞宗ではなく天台宗であったということだけが伝わっているという。

 この和地村の豪農であった川合安右衛門なる者が、寛永の頃に自ら開基となってからは、住職のいるお寺として何とか維持されてきているらしい。

 崋山はこの医福寺に残されていた、覚明が書写したという大般若経六百巻によほど関心を抱いたようで、この大般若経について詳しく考証しています。

 結論としては、「正筆(覚明の真筆)とするもの三四巻に過(すぎ)ず」であったようだ。

 あとは「雨漏破損」等のために「真筆」は「散失」してしまったのです。

 医福寺の老僧は、親切な人物でした。

 老僧は、下腹部の痛みがあるため薬湯を沸かして入っており、崋山にもぜひ入るようにと促しました。

 製法を聞くと、「フウトウ」(風藤葛)という草を煎じて湯の中に入れるのだという。

 実際に入ってみると、湯に草も入っていたから、別に煎じた薬湯と一緒に草も入れるものと思われました。

 和尚が言うには、「このフウトウという草はどこにもあるけれども、和地村に生えているのが一番よく、この薬湯に2、3日入ればどんなむずかしい病気であっても必ず効果がある」とのこと。

 この和尚は弓を好み、弓箭(弓と矢)を床の上に並べていました。

 よぼよぼの年老いた姿とはちょっとかけ離れた趣向であり、崋山は意外に思ったようだ。

 「いと似気なし」と記しています。

 この医福寺に泊まった崋山は、翌4月16日(陰暦)の朝を迎えます。

 朝早く起きて、朝食を摂る。

 おかずは「えんどう豆」や、「ふき」や「麩(ふ)」などを切って入れたもの。汁物に「ふき」や「麩」が入っていたのだろうか。

 老僧が手ずから作った精進料理であったのでしょう。

 老僧から、近くのお寺に最近山賊が押し入って住職が殺害されたということを聞いて驚く崋山。

 覚明が書写したという古い大般若経六百巻に関心を持って、本当にそれが覚明が書写したものかどうかを経巻を開いて考証している崋山。

 老僧に勧められて、草(フウトウ)の入った薬湯にじっくりと浸かっている崋山。

 弓矢を床に並べて寝ている老僧の姿に、違和感と滑稽味を感じている崋山。

 老僧手作りの簡素な朝食を味わっている崋山。

 たまたま泊まることになった和地村医福寺での夕方から翌朝にかけての二日間。

 短い宿りではあったけれども、豊かな崋山の時間が流れているのを感じます。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

※掲載写真…『参海雑志』デジタル版 「医福寺」のスケッチ



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