鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その14

2015-02-19 06:01:35 | Weblog
崋山が小久保政右衛門に案内された訪れた常光寺は、かつて崋山が訪れた時には南浜にあったものが、昨年に新築移転したもので、本堂・書院・庫裏(くり)・観音堂・回廊・門・鐘楼の備わる立派なお寺になっていました。崋山は、「規模宏壮になりて南参第一の精舎なり」と記しています。宗派は曹洞宗。開基は烏山資任、開山は潔堂和尚。移転した理由は「年々浜かけ入て永く住しがたきよし」とあり、おそらく浜が年々狭まっていって(波によって海食されて)永く住めるところではなくなってきたからであったようだ。背後は山で、前は林が広がり、まことに眺めのよい土地であり、背後の山も寺領ではなかったけれども土地の農民がみんなで寄進したものであるという。檀家が相当な経費をかけて、この常光寺を新築移転し、南三河地方第一の規模壮大なお寺にしたわけですが、これはこの周辺の常光寺の檀徒たちの経済力を示しています。この経済力は何に拠っているのだろう。漁業による収益だろうか、それとも農業による収益なのだろうか。崋山が小久保政右衛門について語るところによれば、網船を多数所有していて収益をあげていたということだから、農業というよりも漁業によって得られた経済力であったかも知れない。しかし神仏を祈ることを尊いとする崋山も、手放しで村人たちがお寺を立派にしていることを礼賛しているわけではありません。崋山は次のように記しています。「凡参州ハ釈を尊ぶ風俗にて、寺院益家作に心をゆだね、我先にと新営をきそふあしき風俗なり。」 檀家が競うようにお寺を新築したりしてお金をかけるのはよくない風俗だとしています。崋山が小久保政右衛門に案内されて訪れた常光寺は、まだ新築されたばかりで、しかも大きな伽藍を備えた立派なものであり、かつて南浜にあった常光寺の姿を知っている崋山としては、大きな驚きであったのです。 . . . 本文を読む