鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その13

2014-06-09 05:22:16 | Weblog
『游相日記』(原本は大正12年〔1923年〕の関東大震災で焼失)に描かれた大川清蔵家の室内の様子を詳しくみていきたい。左端にかしこまって正座している老人は、早川村から駆け付けてきた佐藤幾右衛門(78歳・まちの実父)。その幾右衛門が座っているところも含めて、この家の床はすべて板敷。幾右衛門の前に来客用の膳が置いてある。それに載っているのは「そばがき」や「吸い物」だろうか。お勝手に見える「まち」は、三つ目の膳を今しも運ぼうとしている。載っているのは「卵焼き」であろうか。「まち」心づくしの料理であり、精一杯のおもてなしである。板敷の床に敷いた「花筵(むしろ)に後姿を見せて座っているのはやはり崋山自身であると思われる。崋山は記念すべき、三人が会している場面を描き残しておきたかったのだ。二人の男(幾右衛門と崋山)が対面している部屋が「奥の間」だとすると、その向こうの囲炉裏のある部屋が「座敷」ということになる。囲炉裏には天井から2本の自在鉤が吊り下げられており、それぞれに鉄鍋のようなものが掛けられている。両方とも木の蓋(ふた)がされているようだ。「吸い物」や「お粥」を作っているのだろうか。左側の自在鉤には、魚の形をした横木(自在鉤の高さを調整するもの)が取り付けられています。2つの自在鉤の間に描かれているのが金属製の火箸(ひばし)。「まち」が膳を運んでいるところは「お勝手」であり、その奥に竈(かまど)が見えるが、そこが「土間」。「お勝手」と「土間」は地続きになっています。竈には薪がくべられており、その竈にはお釜が載せられている。その木蓋の上に置かれているのは、手桶(ておけ)のような形をしたもの。これは私の推測ですが、早川村から駆け付けた幾右衛門が携えてきたお酒の入った手桶ではないか。左端の上に描かれる板戸は、「勝手口」の戸であるでしょう。早川村から駆け付けた幾右衛門も、厚木から戻ってきた清吉も、この「勝手口」から家の中に入ってきたものと思われる。囲炉裏のある部屋の天井から吊り下げられたものがもう一つある。これは川魚を串刺しにして乾燥させているのではないだろうか。囲炉裏の燻煙で保存食を作っているのです。土間にある台所には調理台があり、壁の棚の上には大きなざるのようなものが一つ置かれています。「座敷」の障子際に置かれているのは、「葛籠」(つづら)を3段重ねて置いたものだろうか。 . . . 本文を読む