鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その11

2014-06-07 08:11:47 | Weblog
小園村について、崋山は次のように記しています。「そもそも此(この)小薗(こぞの)といふ所は、戸わづかに二三軒に不過(すぎず)、高ハ弐百石、堀田相模守どのゝ領なり。土、赤黒、砂まじりにて、下石といふ。田少く圃多し。早川も蕭々たる村なり。佐倉より一年に一度、人別あらために来(くる)。農はさら也、寺社迄も、其(その)寓居に行て礼をなす。又これにて偵察をもすると聞けり。」 崋山は小園村の戸数はわずかに23軒、村は200石としていますが、『小園の歴史』によると天保年間の戸数は42戸(『新編相模風土記稿』に拠る)、天保14年(1843年)頃の村高は370石余でした。土地は火山灰地で痩せていました。「下石」というのは生産高が高くないということ。水田は目久尻川沿いにわずかにあって、あとは台地上に畑が多くあり粟やサツマイモが栽培されていました。領主は佐倉藩堀田家。高座郡では小園・吉岡・国分・上河内・用田の5ヶ村が佐倉藩領でした。崋山の記述によると、佐倉藩からは年に一度、人別改め(戸口調査)の役人がやってきたらしい。農家はいうまでもなくお寺や神社にいたるまで、役人がその戸口までやって来て調査をしたようです。かなり徹底した「人別改め」を佐倉藩はやっていたことになる。そしてその戸口調査は、村内の偵察も兼ねていたらしい。「寺社」というのは、東光山延命寺(地蔵堂)と子之社(ねのしゃ)であったでしょう。目久尻川を小園橋で渡って少し入ったところに、大川家が檀家であった曹洞宗長泉寺がありますが、このお寺のあるところは小園村ではなくて早川村でした。東光山延命寺(地蔵堂)の天保2年(1831年)当時の住職は、『小園の歴史』によると泰善法師(天保5年9月5日没)であったようです。佐倉藩の役人は年に一度「人別改め」にやってきて、一軒一軒もらさずに農家を訪ねて戸口調査をしました。もちろん大川清蔵家にもやってきました。江戸からお侍(役人)が村にやってくるのはそれぐらいで、武士がわざわざ村の者を訪ねてくるというのは、きわめて珍しいことであったでしょう。崋山と梧庵が、長男清吉とともに村を出立する時は、村の人々がみんな門前に出て来て見送ったほど。もちろん清蔵やまち、その子どもたち、そして老齢の幾右衛門も村境の小園橋のたもとまで崋山を見送ったことでしょう。天保2年(1831年)9月22日の午後のことでした。 . . . 本文を読む