鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その3

2014-06-27 05:54:13 | Weblog

 石鳥居を潜って境内に入ると、「有鹿神社」の由緒が記された看板がありました。

 それによると、奈良平安の頃、相模国府は有鹿(あるか)郷に所在し、有鹿神社は国司の崇敬を受けて相模国の延喜式内社中随一の社格を有したとのこと。

 広大な境内に美麗や社殿が建ち、条里制の海老名耕地を領有し、また明神大縄(参道)は社人の住む社家を経て寒川に至り、一大縄は、相模国分寺に至ったという。

 国府が移転すると、有鹿郷から海老名郷に地名も変化。

 有鹿神社は、豪族の海老名氏の崇敬を受けることになったとのこと。

 その後、室町時代の二度の大乱を蒙り、海老名氏は滅亡し、美麗な社殿と広大な境内や社領も喪失してしまったという。

 この記述から、かつてこの有鹿神社が、条里制の海老名耕地を領有していたこと、参道(有鹿大明神=有鹿神社)の参道である「明神大縄」は、水田の中を社家を経て寒川(寒川神社がある)に至り、そして「一大縄」はやはり水田の中をまっすぐに延びて相模国分寺に至るものであったことがわかります。

 かつては国司の尊崇を受けて、相模国延喜式内社中随一の社格を有していたということから考えても、水利上あるいは地勢上、きわめて重要な神社であったことがわかります。

 境内にはかつては神木ではなかったかと思われる巨木が根元で切断され、その切断面を見せているのもありましたが、これはかつては有鹿神社の鎮守の杜の中でもとりわけ目立った巨木であったのかもしれない。

 本殿の背後(北側)の土手の向こうは相模川でした。

 その有鹿神社を出て、もときた道(この道は社家を経て寒川に至る「明神参道」ということになる)を戻り、右手道沿いに庚申塔が半ば道に埋もれた状態であるところで右折しました。

 というのも、『ホントに歩く 大山街道』の地図(P155)に、その道を進んで相模川に達したところが「伊能忠敬渡河地」であると記されてあったから。

 直進して、圏央自動車道の高架を潜ると、そこからわずかばかりで相模川の流れが広がっていました。

 伊能忠敬はこのあたりで相模川を渡ったのです。

 そこから道を戻る途中、左手に「海老名氏墳墓」と刻まれた石柱が立っており、そこから参道が北方向へと延びていました。

 その参道の奥に小ぶりのお堂があり、その中のお墓が海老名季定の墓と伝えられているが確証はないとのこと。一般には、海老名一族の墓所といわれているらしい。

 庚申塔の埋まっているところに戻り、大山街道の四つ角に戻って、そのまま直進(南進)して、まもなく右折していくと、左手に「海老名市立歴史資料収蔵館」があり、その建物と敷地を左手に見てから左折。

 古い庚申塔があるところで、今度は右折して進み、ぶつかった通りを今度は左折。

 しばらくしてまた右折して直進し、相模川にぶつかったところがかつての厚木の渡し場となります。

 国分坂下から河原口村の入口まで、田んぼの中をまっすぐに延びていた大山街道は、有鹿(あるか)神社の杜を右手(北方向)に見たところで左折し、そこから河原口村の中を折れ曲がりながら進んで、相模川の土手や河原へと達したことになります。

 『ホントに歩く 大山街道』には、「この十字路を左折して、何度か左折、右折を繰り返す。この区間は、つづら状に七回も曲がっていたので『七曲り』といった」と記されています。

 崋山と梧庵は、馬を引く大川清吉(「お銀さま=「まち」と大川清蔵の長男)に案内されて、この河原口村内の「七曲り」を進み、ようやく厚木の渡し場に至りました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)

・『新編相模国風土記稿』(巻之五十五 愛甲郡二 厚木村)

・『ホントに歩く 大山街道』中平龍二郎(風人社)

 



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