鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その6

2014-06-01 06:52:25 | Weblog
『小園の歴史』によれば、「お銀さま」(佐藤まち)の父親である幾右衛門は、天保6年(1835年)、82歳で亡くなっています。ということは、崋山来訪の時、幾右衛門は78歳。柏ヶ谷あたりの翁は、「年は、八十にも至りぬらん」と崋山に語っていますが、ほぼその通りでした。「お銀さま」の夫で、いたって世話好きであった大川清蔵は、天保7年(1836年)、52歳で亡くなっています。ということは、崋山来訪時、47歳であったことになる。「お銀さま」はどうか。「お銀さま」は、文久2年(1862)年8月15日(陰暦)に78歳で亡くなったとあります。ということは、崋山来訪時には47歳ということになり、夫である清蔵とは同年齢であったことがわかります。「お銀さま」と田原藩第11代藩主三宅康友との間に男の子(後の友信)が生まれたのが文化3年(1806年)であったから、その時の「まち」の年齢は22歳。「まち」がいつから田原藩の女中奉公をするようになったかはわからないが、「まち」が世子亀吉のお守り女中の一人であったと推測し、崋山が世子亀吉の御伽役を命ぜられたのが寛政12年(1800年)であった(当時、崋山は8歳)ことから考えると、寛政12年前後に女中奉公するようになったのではないか。もし寛政12年(1800年)であったとすると、その時、「まち」は16歳であったことになります。8歳の崋山(虎之助)より8歳年上。当時の年齢の数えた方は「数え」であることを考慮すると、現在で言えば、小学校2年生ぐらいの男の子と、中学3年生ぐらいの女の子ということになりますが、崋山(虎之助)からすれば、かなり年上の女性(しかし若い女性)に見えたことでしょう。 . . . 本文を読む