鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その最終回

2010-02-21 07:05:48 | Weblog
関本は小田原と甲府を結ぶ「足柄道」の重要な宿場の一つであり、旅籠や問屋、商店などが街道沿いに軒を並べていました。この関本からは、井細田(いさいだ)を経由して東海道に入り、江の島や鎌倉、江戸方面へ向かうことができ、また「矢倉沢往還」(大山街道)を利用して、大山や、厚木・江戸方面へと向かうことができました。この関本には曹洞宗の古刹(こさつ)大雄山最乗寺があって周辺地域の人々の信仰を集め、また富士講の人々が「足柄道」を利用したから、とくに夏ともなればそれらの信仰者が宿泊するところとしても賑わいました。たとえばこの関本にも「富士屋」という旅籠がありましたが、ここは富士講の人々の定宿(じょうやど)の一つであり、5、60人ほどは宿泊することができたといいます。江戸の富士講の人たちは、江戸→富士山→足柄峠→大山→江の島→江戸というコースをたどることが多かったので(富士山・大山・江の島は、セットで参詣される場合が多かった)、そのことを考えると、足柄峠をこれから越えて富士山に向かう人々よりも、富士登山を終えてこれから大山や江の島を参詣し、そして江戸へと帰っていく人の方が多かったかも知れません。樋口一葉の両親となる樋口大吉と古屋あやめの二人は、ここから大山方面へは向かわずに、江の島・鎌倉に向かうべく東海道方面へと南下していきました。この東海道へと向かう道筋には、狩川(かりかわ)や酒匂川沿いに田んぼの広がりが見られましたが、これがいわゆる足柄平野。この足柄平野もあの宝永4年(1707年)の富士山大爆発による「砂降り」で深刻な被害をこうむりました。『あしがらの道 矢倉沢往還と足柄古道』によれば、この街道沿いの「和田河原」という村の石高(村高)は噴火前の元禄期においておよそ690石。それが「砂降り」による深刻な被害(二次災害も含めて)を受けてから、おおむねもとの額の年貢米を納めることができるようになったのは、およそ90年後の寛政年間のことだという。復旧するのにおよそ100年という年月を必要としたのです。先ほどの関本宿において「砂降り」の深さはおよそ40cmほど。千津島(せんづしま)では60cm。秦野で40~50cm。藤沢でも20~30cmに達しました。降り砂は雨で谷や川に流れ込み、川底を上昇させて大雨による堤防の決壊をもたらし、村や田畑が大きな被害を受けることになったのです。 . . . 本文を読む