鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その2

2010-02-10 06:45:10 | Weblog
 「瑞穂神社」を出て、神社前の道を右折すると、左手にあったのが「上小林公民館」。道はゆるやかにカーブしながら集落に入っていきますが、道は人家にぶつかって行き止まりとなり、左側の県道へと再び戻りました。

 「御殿場歴史ふれあいウォーク(高根地区) 六 道路改良記念碑」と記された御殿場市教育委員会が設置した真新しい看板と記念碑が立っていました。

 この道筋でよく見かけるのは「西国供養塔」というもの。ここには、細い藁(わら)の紐が巻かれてその紐に白い紙が結ばれている供養塔があり、今でも供養なり信仰が続いていることがうかがえます。

 左側斜面が削り取られたような特異な形をした足柄山は、このあたりから次第にその姿を大きく見せてきます。富士山は、と思って振り返ると、宝永山から上半分が朝日を浴びて純白に輝き、その下はまだ日陰になっています。上空は薄い雲が刷毛(はけ)ではいたように広がっていますが、全体としては澄んだ水色。歩き始めてから時々道を振り返ると、そこには富士山が樹林の上から顔を出し、その表情は刻一刻と変化しています。この刻一刻の表情の変化こそ、富士山の魅力というもので、富士山が高く屹立する独立峰であるだけにその変化が際立つのです。自然のダイナミックな動きというものを、これほど仰ぎ見るものに感じさせる山はそうざらにはない。

 通りから右手の畑道へと入り、冷水の流れる高原野菜の畑越しに朝日に輝く純白の富士山を撮影しました。

 「国道150静岡 足柄│停│富士公園線 御殿場市古沢」と記された道路標示を見たのは8:02。道は国道246号線にぶつかり、その信号には「古沢」とありました。信号を渡って右手にあったのが、「富士山東口 一幣司浅間神社」のと刻まれた石碑。その神社の社域に足を踏み入れてみました。

 「浅間神社」というのは例外なく富士山を遥拝できる場所にある。先ほどの「古沢」の交差点からも、何本もの電柱や電線、そして建ち並ぶ看板に視界を煩わしく遮(さえぎ)られるものの美しい富士山を望むことができます。視界からその狭雑物や車が激しく行き来する国道を取り除いてみた時、ここが富士を遥拝する絶好の地であることがわかります。

 足柄道を歩く時、そこから見える富士山はその左側中腹に出っ張りが見えるのですが、これが宝永山。つまり宝永年間に富士山が爆発した時の爆裂口があるところであり、それによって出来た山であるから宝永山という。この宝永山には、御殿場口から富士登山をした時、下山の途中に立ち寄ったことがあります。ちょうど宝永の大噴火から300年にあたる年でした。

 社域には注連縄(しめなわ)が巻かれた杉の御神木がありました。静岡県神社庁の「御神木指定証」の看板が立っています。「御神木」の指定は、静岡県神社庁御神木審査委員会というものがあってそこが行うものであることを知りました。氏子たちが「御神木」として認めていたものが自然に「御神木」になったというものではないということです。他の県でも同様なのでしょうか。

 杉並木も鳥居も社殿も富士山を背にして一直線上にあります。これは富士山を遥拝する場所であったことを示すもので、この遥拝所というのはそうとうに古くからあったもののように思われます。社殿が建つずっと以前からあったもので、縄文時代にまで遡(さかのぼ)っていくものではないか。御坂峠を越えてから各地の浅間神社を見ていった経験から、私はそのように判断しています。

 河口湖の手前にあった河口浅間神社は、現在は鎌倉街道へと参道が延び、街道の方を向いていますが、土地の方から聞いた話では、鎌倉街道が整備される以前の古道はもっと神社寄りに走っており、神社も富士山の方を向いていたというのです。それがわかるのは杉の巨木の位置。杉の巨木が立っているところを見ると、富士山の方向へと古道が延びていたことがわかるという話でした。現在はその古道はほとんど消え失せ、樹木や人家がその上を覆っています。

 かつての河口浅間神社があった場所は、ずっとむかしから富士山を遥拝する場所であったのです。

 ではなぜ河口湖から離れた少し高いところにあったかと言えば、それは豪雨などで河口湖の水位が上がることがあったから。それによる被害を避けるために高台にあった(そして現在もある)のだという話でした。


 「浅間神社」は富士山を遥拝する絶好地にあるということを、この「一幣司浅間神社」でも再確認することになりました。

 由緒が記された看板には次のようにありました。

 「当古沢は、古昔より東国から京への街道(鎌倉往還等)の要所として栄え、当神社は貞観五年(八六三)年五月五日創建…例祭日には…神輿渡御、又、山車巡行で賑わう。」

 「山車巡行」からも、この「街道の要所」としての古沢の地のかつての賑わいをうかがい知ることができます。

 「一幣司浅間神社」を出たのは8:10。ふたたび県道を足柄峠方面に向かって歩きます。

 まもなく「県営圃場整備事業高根北部地区完成記念碑」が立っているのを、道の左手に見かけました。それによるとこの地区の水田は、富士山の東のすそ野に東西方向に階段状に広がっている傾斜地にあって、もともとは不整形の田んぼの集合で農道も湾曲し、そ農道の幅も狭いものであったから、農業用の機械を導入しての近代的農業を推進するにははなはだ困難であったため、大々的な整備事業が展開されたのだという。苦慮されたことの一つは、田んぼに点在する旧墓地をどうするかということであり、結局、大塚と北原というところに共同墓地を造成することでその問題は解決されたのだとのこと。

 この事業が完成したのは平成19年の3月ということだから、ごく最近の事業の完成であったわけです。

 このあたりの田園の風景は、かつてとは大きく変貌していることが、この碑文からわかりました。かつては不整形の小さな田んぼが集合しているところであり、それらは斜面上に段々になって連続していました。そして狭い農道が田んぼに沿って湾曲して縦横に延びていたということになります。宝永の富士山の大噴火の時も、このあたりの田んぼはそのようなものであったでしょう。この大噴火の「砂降り」により、この古沢辺りの田んぼも深刻な被害を受けたはずです。

 「古沢公民館」を左に見てすぐにも「古沢東」交差点にぶつかりました。ここで交差する通りが、国道246というバイパスが出来るまでの交通幹線であったでしょう。この道路は県道394号線。かつての主要幹線の面影を残しています。

 この交差点を突っ切ると、整備事業を終えた田んぼの広がりが道の両側に展開しはじめました。道端には取り残されたように「双体道祖神」があり、細い藁(わら)紐が結ばれていました。先ほどの「西国供養塔」と同様、まだ素朴な信仰が細々と続いているのです。

 「小山町 Oyama Town」の標示があり、小山町の町域に入ったのは8:28でした。

 ここからすぐに右斜め方向に入っていく旧道らしき道があり、そこへ入っていきましたが、その道は「瑞穂神社」前の道と同様ゆるやかにカーブしながら、わずかな傾斜を保って下って行きます。


 続く


○参考文献
・『定本 静岡県の街道』若村淳之監修(郷土出版社)
・『ごてんばの古道』(御殿場市立図書館 古文書を読む会)
・『富士山宝永大爆発』永原慶ニ(集英社新書/集英社)


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