鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その3

2010-02-11 08:41:08 | Weblog
 左手に「真浄庵跡(石標)」と記された古い案内板がありました。それによればこの庵は日蓮宗のお寺で無住職・無檀家であったらしい。道標があって、それには「左ふじみち右さかした道」と刻まれているとのこと。ここを南北に横切る道が、足柄峠から竹之下・須走へと続く富士山参詣の道者みちだったことがわかる、とされていますが、つまり足柄街道がここを走っていたことがこの石標ではっきりします。

 石標には、たしかに「右さか」「左ふじ」という文字が刻まれていました。「した」や「みち」は土に埋もれています。

 道は信号のある交差点にぶつかり、そこに「下古城・足柄」と記された案内標示が立っていました。ふたたび県道(150号線)を歩くことになりますが、現れたバス停の名前は「新井」。

 しばらく歩くと左手に大きなお寺が見えてきます。山門には「東陽山」とあり、山門の柱には「臨済宗西光寺」とある。山門を入ると「沿革」を記した案内板がありました。それによると寺内には弘法大師のお水と伝えられる井戸があり、また新田氏二十九代の新田ト野殿の神願により寄進された福聚辨天(ふくじゅべんてん)と東陽山の額二面があることから、昔は山門の前を通行する武士もわざわざ下馬したと伝えられているという。また門前の観世音菩薩の石像は、安政5年(1858年)に建てられたものであるらしい。後に樋口一葉(奈津)の両親となる樋口大吉と古屋あやめがこの門前を通過した1年後のことになります。

 門前のその「観世音菩薩」像をたしかめてみると、その顔の表情は古拙な趣きのあるもので、その右側にある「千躰地蔵尊」も同様の表情を浮かべていました。

 本堂の左手には鐘楼といくつかの池があり、その池はどうも湧水による池のようでした。

 西光寺を出たのは8:43。

 門前の通りを足柄峠に向かってふたたび歩き始めると、すぐに左手に「札場(高札場跡)」と記された案内板。ここには近世、大胡田(おおごだ)村の高札場があって「札場(ふだば)」と呼ばれていたという。ここにはかなり素朴で穏やかな表情を浮かべた(かなり表面が風化しているもののそのように見える)「双体道祖神」と「単体道祖神」がありました。ほかにも二体の石像がありますが、これらは道路の改修ないし拡張によりここに集められたものかも知れない。

 道の改修ないし拡張によって、散在していた道祖神や馬頭観世音などが一ヶ所に集められている光景は、いたるところで目撃します。土地改良事業により各田んぼに散在している墓地の処理に苦慮し、共同墓地を新たに設けることによってそれを解決したのと同じようなパターンであるでしょう。

 「道祖神」や「馬頭観世音」を、道路整備により無用なものとして無惨に打ち捨てたり処理したりする事態に至らなかったのは、古くからの先祖代々のお墓と同様に、それに長年ささげられてきた村人の信仰心や供養の心や、またそれに付随している霊威のようなものを無視することができなかったからだと思われます。

 「ごてんばこしひかりの里」の看板に注意を引かれながら進むことしばらく、左手に墓石が並んだような石塚が見えてきました。ちゃんと案内板も立っています。だだっ広い田んぼの広がりの中にポツンとある塚で、六つほどの墓石のようなものが並んでいます。

 近寄ってみると墓石ではなく供養塚でした。大きな石を積み上げた塚の上に、六つの大小の供養塚が並んでおり、案内板によると、以前はこの場所から上下それぞれ100mほど離れた場所に供養塚があり、それに下古城(しもふるしろ)字(あざ)内にあった供養塚をも含めて、この場所一ヶ所に集めたものであるという。供養塚は、行路病者など斃(たお)れた者を供養するために設けたものであるらしい。

 ということは、この足柄街道の道筋で、旅の途中に病気などで行き倒れになって死んだ者がいて、その場所に村人が死んだ者を供養するために設けたものが「供養塚」であって、それがこの場所から100mほどの道沿いにかつては散在していたということになります。「定礎」の碑文には「ほ場整備のため、移転」とありますが、「ほ場」とは「田圃(たんぼ)」のことであり、その田んぼの整備事業のために、散在していたものをここに集めたということです。

 農業用機械導入による近代的な農法を行うためには、たしかに不整形の小さな田んぼの集合体は不便なものであり、曲がりくねった幅の狭い農道も、また散在する墓地や石仏、また供養塚なども邪魔な存在になります。田んぼの整備、道路の拡張・整備のために、かつてあった墓地や石仏・道祖神・供養塚などはその処置に苦慮することになりますが、それには長年の人々の信仰心や供養心が染み付いており、打ち捨てるわけには行かず、一ヶ所にまとめられていくことになったということでしょう。

 石仏や道祖神、そして馬頭観世音が一ヶ所にまとめられているところを、さまざまなところで目撃しますが、それはたいてい以上のような事情によってそのようになったと思われます。それは多くは戦後、いわゆる高度経済成長期に入ってからのことであるに違いない。

 この供養塚の一番右端にあるのは「西国供養塔」。左端にあるのは石地蔵を彫り出したような供養塚でした。

 振り返ると、立派に舗装された道路(県道55号線)が富士山のすそ野へと延び、その左側に雪をかぶった富士山の全容が見えました。その左側には宝永山の出っ張りがある。農地はたしかに不整形ではなく、広々とした四角い耕地になっています。その耕地の向こうに、富士山は悠然と聳(そび)えています。耕地の一部は、高原野菜を栽培する畑にもなっていて、その間を流れる用水と高原野菜の鮮やかな緑越しに望む富士山の風景も美しいものです。

 富士急バスの「下古城」バス停の時刻表には、小山高校行きの7:57のバス1本しか記されていません。これはいわゆる「スクールバス」といってもいいバスで、高校生以外の利用者はいないようです。

 足柄山を進行方向やや右手に見て、立派な舗装道路はゆるやかな傾斜で下っていきます。



 続く



○参考文献
・『裾野市史』(裾野市)
・『富士山宝永大爆発』永原慶二(集英社新書/集英社)


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