鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 赤岡まで その4 

2010-02-02 06:43:47 | Weblog
宮地佐一郎さんの『中岡慎太郎』によれば、宮地さんが『中岡慎太郎全集』を編述していた際に、郷土史家である前田年雄氏から提供された史料が、山崎氤(さかん)が祖母であったお絹から聞いた目撃談を認めたもので、それは山崎家に伝えられてきたものだとのこと。この聞き書きの一部が『中岡慎太郎』のP102に引用されていますが、そこには「中岡小伝次ノ長女お京ハ野根山ノ番所頭木下某(嘉久次)ニ嫁ス。此木下ハ二十三士ノ一人ナリ」とある。「木下某」とは「木下嘉久次」であることがわかります。この「木下嘉久次」は、たしかにあの「二十三士」の墓所の中にその名前が刻まれた墓石がありました。しかし同書P104を見ると、「木下嘉久次 岩佐番所長 二十一歳」とある。その左に「木下慎之助」という名前があって、それには「嘉久次弟 十六歳」とあって、兄である木下嘉久次が21歳で処刑されたことはまず間違いない。ここで疑問が出てきました。奈半利川の河原で「二十三士」が処刑されたのは、中岡慎太郎が26歳(満年齢)の時。慎太郎の姉(異母姉)お京は、当然に慎太郎よりも年上であり、やはり慎太郎の姉であったかつ(北川武平次の妻で自殺)よりも年上。かつは北川武平次に嫁いで嘉永5年(1852年)、慎太郎14歳(満年齢)で亡くなっていますから、もしかつが元治元年(1864年)に生きていれば27歳以上。ということは、お京は30前後なしい30以上ということになり、木下嘉久次21歳とは年齢的に釣り合わないことになります。とすると、考えられるのは山崎氤(保太郎)の聞き書きないし記憶に誤りがあったということになります。ヒントになるのは、「中岡小伝次の長女お京」とあること。実はお京は慎太郎にとって次姉であり、長女はお縫でした。このお縫が嫁いだ相手は「岩佐関番士頭」の「川島総次」であり、処刑当時41歳でした。では山崎保太郎が柏木の家に寄留していた時に、そこに一緒に住んでいた「木下某の長男安馬、妹お照」とは何者か。「木下某」が「木下嘉久次」ではなくて「川島総次」であるとするなら、この二人の子どもは、慎太郎の長姉お縫と川島総次の間に生まれた子どもたちということになります。私の推測ですが、どうも山崎保太郎は、中岡小伝次の長女を「お京」(本当は「お縫」)としてしまったように思われます。このあたりはもっと詰めてみる必要があるようです。 . . . 本文を読む