富士山宝永大爆発の「砂降り」によって深刻な被害を受けたのは人や田畑ばかりではなく家で飼われていた家畜、特に馬が大変な影響を受けることになりました。永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』からそれに関する部分をピックアップしてみます。おそらく11月26日に足柄峠を越えて竹之下かその少し先まで足を踏み入れたと思われる幕府検分使は、「人は一人も姿なく、畜類もことのほか難儀の体(てい)」と報告しています。「畜類」の中心は馬であったでしょう。馬は「駄賃稼ぎ」としても重要で「馬を失うことが特に御厨地方の住民にとってどれほど致命的なことかは分かり切っていた」ものの、「山野も砂に深く埋まってしまったために秣(まぐさ)が確保できず馬を飼いつづけることができ」ず、道も降砂で埋まってしまったために物資流通が滞(とどこお)り「駄賃稼ぎ」も不可能となってしまうと、馬を売って金銭にかえる以外に道はない。この足柄街道沿いの村々の「駄賃稼ぎ」については次のような記述があります。「竹之下─古沢─須走の道筋は、相駿甲を結ぶ東海道の旧道と鎌倉街道、須走─御殿場─神山(こうやま・御殿場市)は、甲州郡内地方から沼津に至って東海道と連なる幹線道路であった。その道路は人馬荷物の往来も多く、地元の村々は馬を飼養して駄賃稼ぎを行い、農業生産力の低さを補填(ほてん)するというのが、江戸時代を通じての暮しの姿であった」。馬で運ばれた物資にはどういうものがあったかといえば、駿河側から甲斐の郡内地方に向けては米・塩・塩合物(しおあいもの─塩漬・塩干物)など、甲斐の郡内から駿河側に向けては雑穀や材木などが運ばれました。須走や古沢、竹之下などは「馬継場」でもあり、「駄賃稼ぎ(馬背運送業)」のための重要な「中継地」であったのです。御厨北筋の深砂七ヶ村の噴火5年後の状況を見てみると、人口は噴火前と較べて44.7%に減り、馬にいたってはなんと11.1%と90%近くも減ってしまっています。大半は売り払われたり死んでしまったのです。状況は足柄峠を越えた足柄平野でも同様で、酒匂川上流新川筋大被害六ヶ村の一つ竹松村の場合、噴火後13年間のうちに餓死した者は184人、病死した者は25人とありますが、飼っていた馬はどうかというと噴火前は58匹いたものがなんとゼロとなってしまっています。農耕用、駄賃稼ぎのための馬の数は極端に減少してしまったのです。 . . . 本文を読む