鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その10

2010-02-20 07:46:16 | Weblog
樋口一葉(奈津)の両親となる樋口大吉と古屋あやめの二人が、足柄峠を越えたのは安政4年(1857年)の4月7日。矢倉沢に下って、そこにあった旅籠「ふじや」に宿泊しています。翌日は「小田原伊細田二而中飯」を摂り、東海道に出て酒匂川を越え、大磯宿の「初屋」に宿泊。「小田原伊細田」というのは実は「井細田(いさいだ)」で、東海道に出る手前の村。矢倉沢は、足柄峠から下りてきて初めての集落である地蔵堂から関所のある矢倉沢にかけての地域。旅籠は地蔵堂にもあったし、また関所の関本側(東側)にも軒を連ねていました。足柄道は矢倉沢を下り、関本から大きく二つに分岐。一方は和田河原→竹松→宮ノ台→吉田島→松田→秦野→伊勢原→厚木→江戸と続く矢倉沢往還。一方は井細田を経て東海道へ出る道。関本は物資の継立や、最乗寺参詣あるしは富士講の人々で賑わい、下宿・中宿・上宿と三つの宿で構成され、問屋や旅籠や商家が建ち並ぶところでした。大吉とあやめは、矢倉沢の「ふじや」を早朝に出立すると、この関本で右折して東海道へと向かい、井細田で昼食を摂って東海道に入り、すぐに酒匂川を渡りました。さて、では二人が宿泊した矢倉沢の「ふじや」という旅籠はどこにあったのか。資料を調べてみると、まず矢倉沢関所の表関所の関本側(東側)に、立花屋・常陸屋・富士屋・江戸屋という4軒の旅籠があったことがわかります。これは『市史の散歩道 「広報みなみあしがら」より』の「矢倉沢と地蔵堂周辺」(P115)に出てきます。さらに地蔵堂にも旅籠「富士屋」というのがあったことがそのP241に記してあり、しかもなんとそれが「現在のうるし亭」であるとされています。「うるし亭」は私がその古民家の風情に惹かれて入って「くずきり」を食べた茶店です。あの家が江戸時代においては「富士屋」という旅籠であったというのです。さらに『あしがらの道 矢倉沢往還と足柄古道』本多英雄(かなしん出版)を紐解いてみると、そのP158に地蔵堂周辺の略地図が載せられていて、現在の「うるし亭」があるところが「富士屋(ふじ屋)」となっていました。つまり地蔵堂と矢倉沢本村の両方に「富士屋」という旅籠があったことになります(実は関本にも富士屋という富士講社の定宿があったという)。そのどちらであったかは確定できませんが、私には地蔵堂の「ふじ屋」(現「うるし亭」)がそれらしく思われてきました。 . . . 本文を読む