鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その9

2010-02-17 06:44:53 | Weblog
裾野市史資料叢書に『勝又半次郎絵日記』というのがあり、たまたま手にとって興味深かったのは、その絵日記に馬がたくさん描かれていること。馬はあら代をかくために使われ、田んぼを鋤く時に使われる。つまり農耕場としての利用。そのほかに荷馬(運搬用)としての利用があり、どういうものを運んでいるかと見てみると、茅(かや)・薪(まき)・鯉・草(秣〔まぐさ=馬の飼料、か〕)・炭・杉葉・かき灰・焼木・柴・桑・小麦・紙など実にさまざま。農耕用そして運搬用として、今で言えば耕運機やトラックのように農家としての生活に大切なものであったから、しばしば「馬つくろい」という言葉が出てくるように半次郎一家は飼い馬を大事にあつかっています。飼い馬が年をとったりすれば馬を新しく取り替えるということもおこなっています。街道筋の農家に見られるような「駄賃稼ぎ」はしていませんが、半次郎の絵日記を見てみると当時の農家において馬がいかに大事な役割を果たしていたかがよくわかります。勝又半次郎は、天保10年(1830年)頃に、駿河国駿東郡御宿(みしゅく)村に生まれています。今で言えば裾野市の御宿。東名の「裾野IC」の付近。屋号は「紙屋」で、農作業の傍ら紙漉き職人を雇って製紙業も行っており、生産された紙は「茶紙」としての需要があり、半次郎もその妻であるぬいもその紙の行商を行ってもいました。御宿村のあたりは宝永4年(1707年)の「砂降り」の影響も少なく、稲作や畑作が順調に行われていましたが、おそらく「砂降り」以前の御厨地方の農家においても、農耕用・運搬用として馬が盛んに利用されていたものと思われます。相模と甲州を結ぶ「足柄道」や沼津と甲州を結ぶ「甲州街道」といった重要幹線沿いの村々においては、飼い馬を使って「駄賃稼ぎ」をする人々も数多くいたことでしょう。「降砂」のために山や草原などの「秣場(まぐさば」が埋まってしまったということは、馬を飼う人々にとっては大変な打撃でした。今でいえば耕運機やトラックの燃料がなくなってしまったに等しい。何よりも人間が田畑を失い、食べるものを失って飢餓状態に陥ろうとしている時に、馬を飼い続けることは困難でした。多くの飼い馬が安い値で売り払われたり、場合によっては是非なく殺されたこともあったかも知れません。 . . . 本文を読む