鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その9

2008-04-23 04:07:19 | Weblog
ここまで書いてきたところで、ひさしぶりに吉村昭さんの『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』を本棚から取り出し、その中の関連部分を読み返してみました。このあたりのことについては私なりに細かく調べてみたつもりですが、読み返してみて、吉村昭さんの徹底した取材にもとづく詳細で正確な記述にあらためて感嘆させらました。今まで不確かであったところがはっきりし、またブログの記事で間違っていたところを訂正することになりました。一本松新田の浜に打ち上げられた船は、「日本の船」で、ディアナ号とともに下田港を出港した「エンクヴィスト海軍大尉を指揮者とした十八名の『ディアナ号』乗組員を乗せた船」であると明記されている。また「一本松に上陸したエンクヴィスト海軍大尉ら十八名のロシア人たちを、五艘の船に分乗させて戸田村に護送するよう手配した」ともある。私は、18名はおそらくプチャーチンらの一隊と合流し宮島村に向かったのでは、としましたがそれは間違いだということになります。宮島村に上陸したプチャーチンがディアナ号を戸田村の港に曳航して欲しいと要請した相手は江川太郎左衛門。プチャーチンと通詞の森山との会話は、ロシア側のオランダ語通訳官を介してなされただろうと考えた私は、その通訳官はとうぜんにコンスタンチン・ポシェート海軍少佐であろうと推測して、そのようにブログに書いてしまいましたが、『落日の宴』では、「ポシェットは…プチャーチンから下田にのこるよう命じられているので、あらためて命令がないかぎり下田をはなれるわけにはゆかぬ、と言ったという」とある。つまりポシェットは、ディアナ号には乗っていず、したがってプチャーチンのそばにはおらず、プチャーチンと森山の会話の通訳をしているはずはない。ポシェットは下田柿崎村の玉泉寺にいるのです。どういう資料を読み込んで記述されたのか、吉村昭さんの徹底した調査にあらためて敬服する思いでした。 . . . 本文を読む