鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その3

2008-04-29 06:32:11 | Weblog
 英龍は、翌日12月1日の朝、三四軒屋浜に出向きプチャーチンと会い、プチャーチンの要請を受けて、駿豆両国海岸村々に座礁したディアナ号を救援するための船を出すように命じます。

 12月2日、ディアナ号の元綱から延びた枝綱を引っ張り、座礁したディアナ号を牽引する船は、その数およそ百艘。しかし、沖ににわかに黒い雲が広がり始め、海面が白く波立つさまを見た内浦の船頭久蔵は、元綱を切断。漂流したディアナ号は、まもなく襲ってきた暴風雨のために横ざまになり、その日の夜のうちに沈没してしまうことになりました。

 荷船に乗って曳船を指揮していたプチャーチンらロシア人30名ほども、暴風雨に巻き込まれ、命からがら内浦の江ノ浦に退避。江ノ浦に上陸して、その夜は付近のお寺に入りました。

 さて、その間、英龍はどうしていたか。

 三四軒屋浜にいたのか。プチャーチンの乗る荷船に乗っていたのか。別の荷船に乗っていたのか。それとも海路、戸田村に向かったのか。

 仲田さんの『江川担庵』と『ヘダ号の建造』の記述を突き合わせても、もう一つそのあたりがわからない。

 いずれにしても、すぐに韮山に戻っているようです。どうも幕府の御普請役のやり口に怒って、憤然として韮山に戻ってしまったようですが、その理由が何なのかは、これもまたよくわからない。また幕府の御普請役が誰なのかも、今のところ私にはよくわからない。

 12月4日、下田在の勘定奉行川路聖謨(としあきら)は、英龍が韮山に引き返してしまったことを知って、英龍を慰撫する内容の書簡を出しています。

 『ヘダ号の建造』のP66に、その川路の英龍宛書簡が紹介されていますが、それを読むと、どうも、プチャーチンが「陸通り」を強硬に主張したことへの幕府の御普請役の対応が、英龍には不満であったらしい。「陸通り」とは、「東海道」を通るということ。この時点では、「陸通り」とは、江ノ浦に退避したプチャーチンら30人ほどのロシア人が、東海道を利用して宮島村に戻るということに違いない。

 私の推測では、幕府御普請役は、そのプチャーチンの強硬な主張についに折れ、江川はその処置に大いに不満を覚えたのではないか、と思われます。

 結局は、プチャーチン一行は、東海道を利用して「陸路」宮島村へ赴き、また、12月6日と7日には、およそ合わせて400余名のロシア人たちが、やはり東海道を通って戸田村へ向かうことになってしまいました。

 もし私の推測があたっているとすれば、ではなぜ英龍は、プチャーチンを始めとしたロシア人の東海道通過に強く異を唱えたのか。

 興味を覚えるところです。

 さて、江ノ浦から陸路宮島村に戻ったプチャーチンは、12月5日、ディアナ号の代船となる20人乗りの「バッティラ」建造願いを提出しています。幕府側は、ただちにそれを許可し、その取締役に英龍を任命します。

 川路の書簡による慰撫と要請により機嫌を直した英龍は、12月6日、韮山を出立して戸田村に出張。10日までの間、現地において代船建造や食料、その他の手当てなど、段取り一切を指示して、10日、戸田村を出立しました。

 韮山に到着したのは翌11日。

 風邪気味で頭痛が激しく、食欲もない状態での韮山到着でした。


 続く



○参考文献
・『江川坦庵』仲田正之(吉川弘文館)
・『ヘダ号の建造』(戸田村教育委員会)


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