鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その1

2008-04-25 06:13:25 | Weblog
 「江ノ浦に上陸したプチャーチンらは、その地の寺院に一泊したが、夜が明けるとプチャーチンは、普請役たちに『ディアナ号』の様子を見たいので宮島村に引返したい、と申出た。
 承諾した普請役は、東海道を進ませることはできないので海路を行かせることにし、船を用意した。しかし、突然の気象変化で死の危険にさらされたプチャーチンは、船でゆくのをこばみ、陸路をゆく、と主張した。普請役がそれは国法に反すると言って拒絶すると、プチャーチンは激怒し、承服しない。その態度に屈した普請役は、プチャーチンをはじめ三十人ほどのロシア人を東海道をすすませて宮島村についたという。
(中略)
 江ノ浦から宮島村まで海路をゆくのを強くこばんだプチャーチンは、当然、(宮島村から=鮎川註)戸田村まで陸路をすすむことをもとめるはずであった。
(中略)
 川路は、好ましいことではないが、かれらを東海道をたどらせるのもやむを得ないと考え、筒井らも賛意をしめし、中村(勘定組頭中村為弥=鮎川註)あてに通行を許す旨の書状を急送した。」

 まずディアナ号の乗組員の数を確認しておきます。ディアナ号は、安政元年の10月14日(西暦1854年12月3日)に、大坂湾から遠州灘を経て、伊豆下田に入港します。その際、乗組員数が幕府側によって確認されていますが501名でした。そのディアナ号下田入港の知らせはただちに江戸に報告され、幕府は勘定奉行の川路らに下田出張を命じます。川路は10月18日に江戸を出立。同行者の一人に御普請役となった元オランダ大通詞森山栄之助がいます。

 川路らは東海道を西進し、箱根峠→三島(泊)→三嶋大社(参拝)→〈下田街道〉→天城峠を経て、10月22日に下田に到着。

 川路らが到着した下田の港にはディアナ号が碇泊していて、その船には使節プチャーチンを含む501人が搭乗していたことになります。

 川路ら幕府側と、使節プチャーチンらロシア側との顔合わせが行なわれたのは11月1日のこと。

 第一回の会談が行なわれたのは11月3日のことでした。

 ところがその翌日の四ツ頃〈午前10時頃〉、突如大地震が発生し、それによって生じた大津波によってディアナ号は竜骨部分を中心に大破、水兵一人も倒れた大砲の下敷きとなって死亡しました(ロシア人の数は500名となる)。

 そのディアナ号の修復地として最終的に選ばれたのが豆州君沢郡の戸田村でした。

 11月26日の朝、ディアナ号は、幕府側の提供した八百石船(エンクヴィスト海軍大尉指揮の18人のロシア人乗組員と通詞の堀達之助が乗り込む)に付き添われて下田を出港します。

※『ヘダ号の建造』(戸田村教育委員会)から抜き出した記事をかつて年表にしたものを参考にして今まで記述してきましたが、あらためて関連部分を絞って読んでみたところ、それに一本松新田に打ち上げられた幕府側の船についてもちゃん記されており、その船には下田から通詞堀達之助も乗っていることを知りました。

 ところが、波浪のためにディアナ号は戸田に入港することができず、11月27日にディアナ号は駿州富士郡宮島村の沖合いに投錨。付き添いの八百石船は、その日の晩に原宿続きの一本松新田の浜辺に打ち上げられてしまうことに。その船から18人のロシア兵が浜辺に上陸してきます(おそらく堀達之助も)。

 彼ら18名は、5隻の漁船に分乗させられ戸田村へと向かうことになったのは、前に触れた通りです。


 続く

○参考文献
・『ヘダ号の建造─幕末における─』(戸田村教育委員会)
・『落日の宴』吉村昭(講談社)


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