安政元年(1854年)の11月下旬から12月初旬にかけて、この駿河湾沿いの東海道を行き来した人々の中には、有名な人物では韮山代官の江川太郎左衛門がいます。他に幕末の通詞(つうじ・通訳)として有名な森山栄之助(後に多吉郎〔たきちろう〕)や堀達之助(たつのすけ)もいます。この2人は、長崎のオランダ通詞の出身で、オランダ語を流暢(りゅうちょう)に話すことが出来ました。したがって、プチャーチンや士官たちとは、ロシア側のオランダ語を話せる通訳官を介して会話をすることが出来ました。森山栄之助については英語も通訳可能な通詞であって、アメリカやイギリスとの重要な外交交渉にも頻繁に顔を出します。当時は幕府直参(じきさん)の御普請役(ごぶしんやく)として、外交機密に深く関与した人物でもありました。おそらく長崎出身のオランダ通詞としては、幕末においてもっとも有能で、そしてもっとも出世した人物ではないかと思われます。戸田村からの要請を受けて、森山は、11月29日に下田を出立。戸田に到着した森山は、18名のロシア兵が上陸した、原と吉原の間の一本松に向かいます。そしておそらくその途次、ディアナ号の座礁を知り、原宿を経由して富士郡宮島村の三四軒屋浜に急行。12月2日の午後には、森山はディアナ号艦長のレソフスキー海軍少佐の傍らにあって、ディアナ号が多数の漁船に曳航されて戸田へ向かっていったものの、途中でとつぜん元綱が切られ、ディアナ号がふたたび流されてくる様子を、望遠鏡で見詰め続けています。やがてディアナ号は沈没。翌3日にプチャーチンらの一行が江ノ浦から東海道経由で宮島村に到着すると、通訳としてプチャーチンらに対応し、6日にはプチャーチンら200余名のロシア人とともに東海道を戸田に向けて出発しています。森山は、ロシア兵や沼津藩兵らとともに、原→沼津城下→江ノ浦(泊)→西浦海岸→真城(さなぎ)峠を経て、翌7日に戸田村に到着。森山は、その道中、常にプチャーチンのそばにいたはずです。おそらく森山とプチャーチンとの会話は、ロシア側の通訳官を介して行なわれていたことでしょう。2人の間には、いったいどのような会話(3人以外にはどういう内容の会話がなされているか理解出来るものは誰もいない)がなされたか、大いに興味のあるところです。 . . . 本文を読む