鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その4

2008-04-17 06:35:55 | Weblog
 宿の境を示す「榜示(ぼうじ)」というと、広重の『東海道五拾三次』の中の数枚に描かれているのを思い出します。「品川」の画面下やや右手に「榜示杭」が描かれ、「平塚」にも画面やや右手に「榜示杭」。「大磯」にも、画面右手、大磯宿の入口の柵の右側に「榜示杭」。高さは意外と高く3m近くはありそう。いずれも木製。角柱小さな屋根が載り、墨で字が記されています。しかし、目の前にある、旧西間門(かどま)村の八幡宮の石鳥居の右手の「榜示」は、角柱ではなく、石柱。しかも明治末期頃になぜか折られてしまって下半分は失われています。残っている石柱には、「従是東」(これより東)と刻まれており、その下に続く文字は「沼津領」であったと考えられています。

 安永6年(1777年)に、水野出羽守忠友が、10代将軍家治(いえはる)より沼津藩を与えられ、翌安永7年に、江川太郎左衛門支配地から沼津藩領になったのだという。

 「間門八幡」バス停を過ぎると、諏訪宮・正覚寺・清玄寺・栄昌寺・吉祥院といった社寺が続き、やがて右手に「松長一里塚跡碑」が見えてきました。この辺りには、東海道を挟んで、北側の松長と南側の大諏訪に一里塚がありました。江戸より三十里の地点となります。

 まもなく右手にセブンイレブン(沼津松長店)が見えてきたので、ドリンクを購入し、トイレ休憩(9:37)。コンビニでトイレが出来るのは、いつも思うことですが、とてもありがたい。

 左手に蓮窓寺を見て進むと、やがて右手に「神明塚古墳」の入口がありました。右折して小道を進むと、突き当たりに「神明塚古墳」がある。円墳で、3~4世紀に造られたものであるらしい。神明宮は、その円墳の頂きにありました。この神明宮は、片浜村松長の鎮守社。裏手(北側)には東海道線が走っています。右隣りは公園となっていて、八幡宮がありました。この公園から、神明宮が頂きに乗る古墳の写真を数枚撮りました。

 東海道に戻り、ふたたび吉原方面へ歩を進める。

 左手に渡邉酒造の蔵や、「片浜駅入口」バス停手前に、上半分がなまこ壁になっている蔵のある家がある。

 「東三本松」、「三本松」バス停を過ぎると、やがて東海道線の踏み切りを渡りますが、その手前左側に「松原温泉旅館」というのがありました。レトロな建物で、ここも写真におさめる。

 踏み切りを渡って右手に神明宮があり、その先の道角に「東海道原宿」のガイドパネルがありました。ここが原宿(はらしゅく)の東木戸(見付)があったと推定されるところ。パネルによると、原宿は、現在の西町・東町・大塚本田の3町で形成されていたといい、東木戸から西木戸までは660間(約2.2km)あったとのこと。

 街道は真っ直ぐに延びている。

 「大塚新田」バス停の右に高木神社があり、また左手には清梵寺や長興寺がある。いずれも臨済宗妙心寺派。箱根からこの辺りにかけての東海道筋には、この臨済宗妙心寺派のお寺が多い。その理由を、ここから少し進んだところで知ることになりました。


 続く


○参考文献
・『「東海道」読本』(川崎市市民ミュージアム)
・『広重と歩こう東海道五十三次』安村敏信・岩崎均史(小学館)
・『静岡県の歴史散歩』静岡県日本史教育研究会編(山川出版社)


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