「稲村神社」の境内を出て旧道に戻ると、玉垣のところに「←滝子山、大鹿峠は左折直進する」の案内表示。
ここも滝子山登山口の一つ。稲村神社の左横の道を北へと入って行く道。
まもなく「吉久保」のバス停があり、旧道はまっすぐ進んで行き家並みも続きますが、その道は中央線にぶつかり途切れています。
そこでしばらく戻って右折すると、中央線のガードを潜る手前に大きな石碑があり、その傍に「葦ヶ池」と記された標柱がありました。
石碑には「葦池」の2文字が刻まれています。
ここには案内板もあるものの、表面がかなり剥がれて読み難くなっています。
この「葦池」というのは現在は消滅しているものの、笹子川の氾濫による土石流によって出来た池であったようであり、「毒蛇」が村人に災いをもたらしたという伝説は、明治40年(1907年)の大水害のように、かなり昔から笹子川の氾濫や土石流による大きな被害が繰り返されたことを物語っているように思われました。
中央線のガード(吉久保ガード)を潜って国道20号に出たところで右折。
そこが「吉久保入口」バス停のあるところで、「滝子山」入口を示す案内表示がありました。
やがて右手から、中央線で途切れた旧道が国道に合流してきます。
「笹子川橋」バス停を過ぎ、途中で国道から右へそれて笹子川橋(現在は車両通行止)で笹子川を渡ると、国道に沿って「笹一醸造元」の工場が延びています。
その工場を左手に見て進むと、右手に笹子川に架かる橋がありますが、これが「阿弥陀川橋」。
このあたりから道の両側に延びる家並みが、かつての「阿弥陀海道宿」。
「笹子局前」バス停を過ぎた電柱には「笹子町黒野田」とありました。
「笹子駅前」バス停を見て、左手のJR笹子駅に立ち寄り、「笹子駅周辺案内図」を確認。
周辺の山々には、滝子山(1610m)、大鹿山(1236m)、笹子雁ヶ腹摺山(1358m)、清八山(1593m)、本社ヶ丸(1631m)、鶴ヶ鳥屋山(1374.4m)などがあります。
このJR笹子駅を過ぎると中央線はすぐに笹子トンネルに入り、中央自動車道もまもなく笹子トンネルへと入っていき、国道20号はというと黒野田、追分を過ぎたところで新笹子トンネルへと入り、その手前で甲州街道は左手へと入って行き、新田を経て笹子峠へと屈曲しながら延びています。
途中あるのが「明治天皇の碑」や、「矢立のスギ」、「笹子隧道」など。
新田近くにある「追分人形芝居」の表記や、案内板下の「秀麗富嶽十二景案内図」も気になりました。
駅舎内には「中央本線笹子トンネルにおける近代化産業遺産認定」と記されたパネルが掲示されていました。
それによると経済産業省は2007年4月より『産業遺産活用委員会』を設置し、公募等で集められた各遺産の認定と地域史・産業史を軸としたストーリーが取りまとめられ、2007年11月に33の近代化遺産群ストーリーに沿った575件の遺産が認定されたとのこと。
このことは私はここで初めて知りました。
さらに平成20年度も自治体などから追加要望を受けて、33の近代化遺産群ストーリーに『近代化遺産群 続33』が追加され、JR東日本からは、中央本線の笹子トンネル(大月市推薦)を含む18施設の認定を受けたという。
また笹子トンネルの「プロフィール」を読むと、トンネルの起点方坑門には伊藤博文の筆による『因地利』(地の利に因る)の題額、終点方坑門には山県有朋の筆による『代天工』(天に代わりたくむ)の題額が取り付けられているとのこと。
明治29年(1896年)に建設が開始され、明治35年(1902年)に完成。
延長は4,656m。
日本で初めてトンネル工事用の自家水力発電所が建設され、発電した電気が坑内における電灯などに用いられたという。
笹子峠という甲州街道第一の難所の直下に、足掛け7年間を費やして長さ4km余ものトンネルを掘るという、国をあげてのたいへんな大工事(難工事)であったことがわかります。
猿橋近くの駒橋発電所(東京電灯〔現東京電力〕駒橋発電所・明治40年完成)は当時日本最大の水力発電所であり、またこの笹子トンネルも当時日本で最長のトンネルでした(昭和6年に上越線の清水トンネルが出来るまで)。
相模湖ダムや津久井ダムなどのダム建設を含め、日本の「近代化」を考える際に甲州街道筋あるいは相模川水系はきわめて重要な一つのポイントであると、改めて思いました。
続く
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