鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-大月~笹子峠まで その17

2017-09-22 06:31:23 | Weblog

 

 JR笹子駅を出て国道に下り、中央線のガードを出ると「変電所前」があり、その先の国道両側に家並みが見えて来ます。

 行く手正面に見える山が笹子雁ヶ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)で、先ほどの駅前の案内図によればそのやや左側が笹子峠。

 笹子峠の直下に「笹子隧道」が走り、笹子雁ヶ腹摺山のやや右側の直下を中央道の「笹子トンネル」、国道20号の「新笹子トンネル」、中央線の「笹子トンネル」が走ります。

 笹子峠の標高は1096m。

 国道をしばらく進むと「黒野田」のバス停が現れました。

 このあたりからは笹子雁ヶ腹摺山は、国道行く手やや左側の上に見えます。

 甲州街道黒野田宿からは、笹子雁ヶ腹摺山と笹子峠をほぼ西方向に仰ぎ見たことになります。

 道はここからしばらくほぼまっすぐのゆるやかな坂道となり、その両側の家並みの中に2階建の伝統的な木造家屋が点在していて、かつての黒野田宿の雰囲気を偲ばせます。

 左手に一風変わった石像があり、その側の案内板によればそれは「笠懸地蔵」で、その由来が記されていました。

 創建は安政2年(1855年)卯5月(旧暦)。

 「此の地蔵創建の根源を考証するとき遠くは天明、百性(姓)一揆を、農史にとどめた。天保の大飢饉、徳川天領時代の七公三民の重税、領民の生活は農作物等の不作に依る餓死、心中、乞食、其の窮乏は後絶たず、領民は襲ってくる苦汁に満ちた諸業を善しかれと地蔵に心願して来たものである。今は只、笠懸地蔵として伝へる術しか有り得ない」

 その石像は、よく見ると頭の上にあるのは「五輪塔」の「火輪」「風輪」「空輪」の三輪のようであり、「笠」には見えない。

 その顔を見ると目鼻立ちがくっきりとしていて愛嬌があり豊頬。

 耳の上に髪の毛があって、地蔵の顔のようではない。

 両腕の太さやお腹の出っ張りから、まるでまるまると太った子どもか力士のように見えます。

 正座した股の間(お腹の下)には楕円形の丸石のようなものが置かれています。

 これはどう見ても「笠懸地蔵」には見えない。

 では、この石像は何だろう。

 今まで見たこともない石像。

 もし頭の上のものが「笠」ではなく、「火輪」「風輪」「空輪」であり、股の間のものが「水輪」であり、この石像が乗っている四角の台石が「地輪」であるとすると、これは「五輪塔」の異形であり、「五輪塔」は供養塔でもあったから、子どもの供養塔と考えられなくもありません。

 楕円形の丸石は、「丸石道祖神」を想起させます。

 なかなか興味ある石像ですが、よくわからない不思議な石像でした。

 「黒野田橋」バス停を過ぎると、左手に「明治天皇行在所趾」の石標。

 石標の左側面には、次のように刻まれています。

 「明治天皇の山梨三重京都御巡幸の砌(みぎ─鮎川)り 明治十三年六月十八日 甲州街道黒野田宿本陣に宿泊 以来百三十年ここに記念碑を再建して後世に伝へる」

 ここが黒野田宿本陣があったところ。

 笹子川に架かる「黒野田橋」を渡ると家並みは途切れますが、このあたりにかつて「黒野田口留番所」があったようです。

 左手に笹子川を見ながら進むと、右手にあったお寺が「黒埜山普明禅院」(臨済宗妙心寺派)。

 その門前右手に「日本橋ヨリ二十五里」と刻まれた石標、そして左側の塀のところに「一里塚跡 黒野田」と記された木柱がありました。

 ここから先で中央線は「笹子トンネル」に入り、中央自動車道は「笹子トンネル」に入ります。

 しばらく進むと「東京から107km」の表示と、「道の駅 甲斐大和 ↑5km」の道路標示があり、それらを見ながら笹子川を「屋影橋」(やかげばし)で渡ると、まもなく「追分」バス停が現れ、笹子峠への旧道の分岐点が近づいて来ました。

 

 次が最終回

 

 



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