相模湖の湖底に沈んだ勝瀬集落は、日連(ひづれ)村勝瀬集落でした。
神奈川県の相模川河水統計事業としてダムの建設が正式決定したのは戦前の昭和13年(1938年)の1月、神奈川県臨時県議会の最終日でした。
この勝瀬を拓いたのはかつてこの集落にあった鳳勝寺(ほうしょうじ)というお寺の開基者である法泉和尚であると伝えられ、拓かれたのは文亀3年(1501年)のことであるとのこと。
今から500年以上も前のことになります。
江戸時代、この勝瀬は、農業や養蚕業、川漁のほかに、相模と甲州を結ぶ相模川水運の中継点であることから物資の中継集散地として栄え、また甲州街道の脇道(近道)である「二瀬越」のルートにあることから旅人や荷運びの牛馬の往来で賑わいました。
集落で最も高いところにあったのが法泉和尚が開いた春日山鳳勝寺。
沈む前においては田んぼは十八町余歩、畑が二十五町余歩、山林原野が百三十町余歩あったという。
津久井県(江戸時代、津久井は郡ではなく県といわれた)においては、山間部であるため田んぼは少なかったのですが、この勝瀬には田んぼが「十八町余歩」もあったことが特筆される。これは相模川が集落を流れていたことによります。
畑は江戸時代中頃から明治・大正・昭和初期にかけては桑畑が中心であったでしょう。
甲州の中でも特に郡内地方との取引が盛んであり、集落内には荷継問屋、造り酒屋、醤油倉、米屋や荒物の店などがあって、「勝瀬仕入れ」という言葉もあったという。
しかし古文書等の史料については明治以前のものは皆無に等しいという。
この四百年以上の歴史を刻んだ勝瀬の人々にダム建設の決定が知らされたのが昭和13年の1月。当然に激しい反対運動が起こりますが、2年ほど後の昭和15年(1940年)9月に集落移転の正式な調印が行われ、ダムの建設が始まります。
朝鮮人強制連行労働者が配置されたり、連行中国人労働者が就労したり、また津久井郡の人々や学徒なども動員されたりして、難工事の末にダムの竣工式が行われたのは戦後の昭和22年(1947年)6月14日のことでした。
ダム建設に伴い移転することになった世帯は84世帯。
22世帯は海老名町に移転し、14世帯は東京都日野市に移転し、12世帯は与瀬町に移転。
移転が完了したのは昭和19年(1944年)10月のことでした。
(以上『湖底への追憶』相模湖水没旧勝瀬地区居住者会・『相模湖町史 歴史編』による)
このダム建設により、歌川広重や北村透谷などが通った甲州街道の脇道(「二瀬越」)はダム湖の下に沈むことになったのですが、その沈む前の勝瀬を含む津久井の風景を写した貴重な古写真が多数残されているのを知ったのは、6年ほど前に訪れた「津久井郷土資料室」(平成27年3月31日をもって一般公開中止)においてでした。
「相模湖町橋沢より望む勝瀬の全景」のほか勝瀬を写した写真が複数、『湖底への追憶』に掲載されていました。
この「相模湖町橋沢より望む勝瀬の全景」はおそらく昭和になって写されたものと思われますが、左手の渡し(勝瀬渡し)から右手の渡し(丹田前の渡し)へと広重が通過した時の勝瀬集落の様子をうかがわせる写真です。
もちろん蛇行して流れる川は相模川(桂川)になります(右手が上流)。
続く
〇参考文献
・文中掲書
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