鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.5月の「東海道保土ヶ谷宿」取材旅行   その2

2007-05-25 20:48:56 | Weblog
 大門通りを越えて進むと、右手に高野山真言宗香象院(こうぞういん)。門前に大釜が左右にデンと2つ。由来はわからず。

 さらに行くと、同じく右手に浄土宗見光寺。境内にコラムニスト青木雨彦(1932~1991)の句碑がありました。参道の右手や、本堂の前の広場、新旧の墓石が立ち並ぶ墓地のところどころに草花が咲き、ホッとするような、やわらかな空間が広がっていました。

 さらに進んで右手に入っていくと、曹洞宗天徳院。下田や戸田に取材旅行に行って以来、見かけた寺に入って墓地などを見学するのは習性のようになってしまいました。集中する新旧の墓石に、歴史の蓄積・重みを感じてしまうのです。墓地は丘の上に延び、上にはどういう一族の墓があるのだろうと、上へ上へ石段を登りました。A家やN家の代々の墓がある墓域があり、また一番上には「歴代和尚」の墓地があり、そこからはランドマークタワーが望めました。この100年だけでも、ここから見える景色は大きく変化したことでしょう。

 東海道に戻り進むと、右手に「ほどがや 歴史の道 旧中橋跡」のガイドパネル。「東海道分間延絵図」によると、かつてここには今井川が流れ、中橋が架かっていました。幕末、保土ヶ谷宿の名主苅部(かりべ)清兵衛は、今井川改修工事の残土を、品川台場の埋め立て用として幕府に献上。3000立(りゅう)坪(約18000立方メートル)余りの土を船で運んだそうです。

 そこを(かつて今井川が流れていた道路)を右手に入ると、高野山真言宗遍照寺。陸軍・海軍兵士の碑が多い。

 その道路の奥右手にお寺の大きな屋根。歩いていって門の前に立つと、日蓮宗大蓮寺という「帷子之里御霊跡」。日蓮聖人ゆかりの寺でした。

 再び東海道に戻って、やがて道は二手に分かれます。左へ行くと保土ヶ谷駅。右へ行くと東海道で「保土ヶ谷駅西口商店街」。

 商店街に入ると、すぐ左手の「ふとん池田屋」の店先に「東海道五十三次地域限定 日本手拭・タオル」(300円)を発見。さっそく手に取り、店に入って購入。お店の方によると「日本橋と保土ヶ谷、それに由比でしか売っていない」とのことでした。東海道を歩く人たちが目に留めて、よく買っていくようです。車や自転車では、見過ごしてしまうかも知れません。歩いている人ならではの発見です。

 すぐ右に「ほどがや 歴史の道 助郷会所跡」、そのあいと向かいに「ほどがや 歴史の道 問屋場跡」のガイドパネル。さらに右手に「ほどがや 歴史の道 高札場跡」(そば屋さんの店先)。高札は、幅二間半(約4.5メートル)、高さ一丈(約3メートル)の規模であったとのこと。

 この辺りが、保土ヶ谷宿で最も活気があったところなのでしょう。

 やがて、金沢・浦賀往還への出入口、通称「金沢横町」にぶつかり、左手入ったところに「金沢横町道標四基」が並んでいました。道標の前に立って、ガイドパネルの説明を取材ノートに書き写していると、年配の女性が、「向こうに休憩所があるから休んでいってね」と声を掛けてくれました。行く先とは違う方向なので、どうしようか、と思いましたが、折角なので、書き終えた後に道を進んでみると、右手にそれとはわからぬような小さな建物があり、その中に2人の女性がいました。

 入って、さっそく目についたのは、保土ヶ谷宿のパンフレットの束。手に取ってみると、「~東海道保土ヶ谷宿にタイムスリップ~歴史を歩いてみよう」とあり、「保土ヶ谷区役所 ほどがや協働まちづくり工房 保土ヶ谷宿四〇〇倶楽部 ほどがやガイドボランティアの会」と書いてあります。広げてみると、イラスト付きのガイドマップ。

 面白いことがわかります。たとえば、「松原商店街」は、江戸時代は松並木が続く道筋であったこと。古町通というのがあって、それが江戸時代初期の古い東海道であったこと。1852年以前の今井川の川筋。香象院には保土ヶ谷宿で最大の寺子屋があったこと。保土ヶ谷宿は、芝生(しぼう)村追分から境木地蔵までの約5kmで、追分から北は神奈川宿、境木地蔵より南は戸塚宿の管轄であったこと……等々。

 大変便利なマップです。

 表には、品川から始まって大津までの全宿場町の名前と、「保土ヶ谷音頭」から、次のような歌詞が紹介されています。

 「むかしゃ保土ヶ谷 五十三次宿場の町よ 青い流れの帷子川に 映る藁屋のカキツバタ」

 「藁屋のカキツバタ」については、後に触れることにします。

 お茶と茶菓子を出してくれた女性は、2人とも「ほどがやガイドボランティアの会」の人。地元出身の人かと思ったら、一人は山梨県の清里、もう一人は庄内(山形県)の鶴岡の出身の方。交代に、この休憩所でガイドボランティアをされているとのこと。思わず話がはずみました。「洪福寺松原商店街」のこと。横浜のこと。年金のこと。田舎のこと……。

 この建物は、かつては魚屋さんをやっていたところで、それを区役所が改修して休憩所として一般に開放。この建物の大屋さんが、先ほど、道標四基の前で、私に「休憩所があるから休んでいってね」と声を掛けてくれた女性〈のご主人?〉であったようです。

 休憩所を出たのが、12:20。

 「保土ヶ谷一丁目本陣跡前」交差点で、東海道は右手に曲がります。

 交差点を渡った突き当たりに、古い石造りの塀と格式を伺わせる門が目立つ、保土ヶ谷本陣跡。

 ここにも、「ほどがや 歴史の道 本陣跡」のガイドパネル。それによると、ここ保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫と言われる苅部家が代々つとめ、安政6年(1859)に横浜が開港した時、当時の当主清兵衛悦甫(えっぽ)が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしたとのこと。明治3年(1870)に軽部姓に改称し、現在に至っているそうです。

 本陣前からさらに進むと、左手に「脇本陣(藤屋)跡」。

 少し行くと、左手の「オーベル保土ヶ谷」の塀に、「東海道五十三次保土ヶ谷宿」の家並みが描かれた金属板が埋め込まれています。描かれているのは、「本陣苅部清兵衛」から「本金子屋」(旅籠屋)までの15軒。

 説明によると、描かれた町並みは、元治元年(1864年)、将軍上洛の際に幕府が調査した往還町並絵図のデータをもとに想像復元したもの。

 「将軍」というのは、14代将軍家茂(いえもち・1846~1866)のこと。家茂は文久3年(1863)に初めて上洛し、翌元治元年(1864)正月に再上洛。さらに慶応元年(1865)5月、江戸を出立して上洛した後、大坂城に入ります。

 この説明によれば、家茂の2度目の上洛に際して、東海道の「往還町並絵図」を幕府は作成していたことになる。たいへんに精密な、労力をかけた調査を行っていたことになります。

 やや進んで左手に、脇本陣(水屋)跡。

 説明によると、保土ヶ谷宿の旅籠数は、寛政12年(1800)に37軒で、天保3年(1842)に69軒。茶屋は、文政7年(1824)に33軒。金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋総代であったそうです。上方見附付近には、「茶屋本陣」というのがあり、正式な本陣に匹敵する規模と格式を持っていたとのこと。

 さらに進んで左手に、旅籠屋(本金子屋)跡。格子戸や通用門など、昔の旅籠の雰囲気を伝えています。現在の建築は、明治2年(1869)のもの。かつての保土ヶ谷宿を偲ばせる貴重な建物です。

 右手に茶屋本陣跡。

 進んで左手に一里塚跡。江戸から8番目の一里塚。といっても昔ながらのものではありません。平成19年(ということは今年)の2月に、今井川沿いの松並木とともに復元されたもの。規模は縮小されているものの、塚の上にはちゃんと榎(えのき)の若木が植えられています。

 案内板「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」によると、この付近から境木まで、3km余、かつては松並木が続いていたとのこと。現在は、旧東海道の権太坂付近に、わずかな名残りを留めるだけ。保土ヶ谷区は、区制80周年記念事業の1つとして、この今井川沿いに松の若木を植えました。この松の若木が大きくなると、街道に木陰をつくる昔通りの松並木が保土ヶ谷宿に甦ることになるのでしょう。

 今井川に架かる仙人橋を渡ると、右手に、横浜市の「名木古木」指定のケヤキ。その奥にある外川神社は、明治2年(1869年)に勧請(かんじょう)されたもので、江戸時代にはなかったもの。

 保土ヶ谷二丁目交差点で右折し、横断歩道を渡り、旧東海道に入ります。右手に日蓮宗樹源寺。裏手は東海道本線が走り、その向こうに墓地があります。滝と噴水のある池に鯉が泳いでいます。池の周りの石庭は、禅宗のお寺のような雰囲気です。

 その樹源寺近くの、東海道に面した「手打ちそば きむら」に入り、「三色そば」を注文してお昼としました(13:20)。

 旧元町橋跡を越え、突き当りの「元町ガード」で左折。

 今井川を「元町橋」で渡ると、「保土ヶ谷宿の『いちはつの花』」の案内板がありました。江戸時代から昭和30年代頃まで、民家の萱葺(かやぶき)屋根の上には、「いちはつの花」が咲き、それが保土ヶ谷の名物だったそうです。

 「いちはつ」を辞書で引くと、「アヤメ科の多年草。中国原産。高さ約三〇~六〇センチメートル。葉は剣形で淡緑色。五月頃花茎を出し、紫・白の花をつける。火災を防ぐという俗信から、時に藁屋根の棟に植えられる。」

 ちょうど今の季節、かつて、旅人が行き交う東海道筋の萱葺き屋根の棟の上には、紫や白の「いちはつの花」が咲いていたのです。「保土ヶ谷音頭」の「カキツバタ」とは、この「いちはつ」の花のことを指しているのでしょう。想像してみると、なかなか風情ある光景が広がります。

 しばらくして、右側に上り坂が現れます。これが旧東海道の「権太坂」。

 いよいよ、東海道最初の難所(江戸から上方方面へ向かう場合)である「権太坂」を越えることになるのですが、ここから先のことについては、勝手ながら次に回すことにします。

 では、また。


○参考文献

・『保土ヶ谷物語』(保土ヶ谷区制50周年記念事業実行委員会)
・「~東海道保土ヶ谷宿にタイムスリップ~歴史を歩いてみよう」(保土ヶ谷区役所)


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