鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.5月の「東海道保土ヶ谷宿」取材旅行   その3

2007-06-01 05:52:01 | Weblog
 「権太(ごんた)坂」という、一度聞いたら忘れられないような坂の名前の由来は、インターネット「横浜市 保土ヶ谷の坂道」によると、2つあるようです。1つは、万治2年(1659年)、藤田権左衛門が坂を開くように代官に指図され、一番の鍬入れを行ったことから、権左衛門の名前を取って「権左坂」と名付けられたが、いつしか「権太坂」と呼ばれるようになったというもの。1つは、ある時、旅人がこの坂の近くにいた老人に、坂の名前を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い込み、「ごんたでございます」と答え、それから「権太坂」と呼ばれるようになったというもの。

 権太坂を登り始めると、左手に「旧東海道権太坂改修記念碑」。坂の右側には、高層マンションが並び立っています。

 横浜横須賀道路(南東に狩場ICがある)に架かる陸橋を渡ってしばらく行くと、右手に「権太坂」の石碑。その説明によると、権太坂は、東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい上り坂。保土ヶ谷宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい上り坂となったそうです。また、坂の上から見える神奈川の海は大変美しかったとも。
  
 右手に神奈川県立光陵高等学校。左手に権太坂小学校。光陵高校を過ぎて右手入ったところに保土ヶ谷養護学校。このあたりは文教地帯でもあるのです。

 権太坂小学校の入口近くに案内板があり、権太坂は、かつては今よりも勾配もきつい相当な急坂で、松並木の続く景色が美しく、西に富士山が見えたとのこと。小学校のそばには、店は閉じているようですが「富士見屋」というのがありました。

 急坂を登ったことと、気温の上昇により、汗がにじみ出てきました。

 道を進んで、境木(さかいぎ)中学校前バス停で左折(旧東海道とは反対の方向へ)。しばらく行くと、左手に「投込塚之跡」の碑。ここは権太坂で行き倒れになった旅人や牛馬を埋めて供養したところと推定されているそうです。権太坂が相当な難所であったことを伺わせる史跡。この辺りは昭和36年(1961年)に宅地造成がなされたということですから、それまではおそらく一面山林であったことでしょう。

 旧東海道に戻り、境木中学校、境木小学校を左手に見て進むと、「ほどがや 歴史の道 境木立場跡」のガイドパネル。

 ここはかつては見晴らしのよい高台で、西には富士山、東には江戸湾が望めるということもあって、旅人が必ず足をとめる名所でした。軒に赤い提灯がぶら下がる茶屋があり、そこでは、境木立場の名物である「牡丹餅」が売られていました。この「牡丹餅」を売る茶屋は、黒塗りの馬乗門や本陣さながらの建物を持ち、参勤交代の大名も利用したという格式のある茶屋であったようで、「若林」という姓を持っていました。立場跡には立派な門構えの家があり、表札には「若林」とありました。

 また「保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来」の案内板があり、「一心山良翁院境木延命地蔵尊」がありました。地蔵堂に通ずる石段を登った左手に、境木大欅(けやき)が聳(そび)え立っています。

 広場の中央には、「武相国境(ぶそうくにざかい)之木」。すなわち武蔵国と相模国の国境を示す木柱があります。江戸時代には「傍示杭(ぼうじくい)」あるいは「境杭」と呼ばれていたそうです。「京都百十七里」、「日本橋九里九丁」とありました。

 左折し横断歩道を渡ると、そこは「焼餅坂」(別名「牡丹餅坂」)で下り坂になります。その「焼餅坂」のとっかかりのすぐ左手の坂を下りていくと、竹林の間の細道を通って左に折れた突き当たりに、萩原代官屋敷がありました。ここは、代々、旗本杉浦氏の代官職であった萩原氏の剣術道場の跡地。幕末から明治初年にかけての当主太郎行篤(ゆきあつ)が、嘉永4年(1851年)に、直心影流の免許皆伝を得て、ここに道場を開いたとのこと。安政5年(1858年)の8月、後に新選組の局長となる近藤勇がここを訪れているそうです。慶応2年(1866年)9月までの入門者総計は、225名。気合の入った掛け声、打ち合う竹刀の音、道場の床を踏み鳴らす足音が、かつてこのあたりに響いていたことがあったのです。

 もとの坂道を戻り、「焼餅坂」の上に出て、「焼餅坂」(旧東海道)を下ります(14:52)。

 住宅街の中の、これが本当に旧東海道だろうか、と不安になるような普通の道筋を進んでいくと、やがて「品濃一里塚」が見えてきました。やはり、この道は旧東海道で間違いはなかったのです。

 道の両側に丸い塚があって木々が鬱蒼(うっそう)と茂り、深い木陰が出来ています。案内板によると、塚は五間(約9メートル)四方。地元では「一里山」と呼ばれていたそうです。東(左手)の塚は平戸村内に、西(右手)の塚は品濃村内に位置し、西の塚には榎(えのき)が植えられていました。

 左手の塚は私有地になっていて立ち入りは出来ませんが、右手の塚は、「品濃一里塚公園」になっています。「品濃一里塚公園入口」の矢印に従って右手の道を入っていくと、塚の裏側に回ることが出来ました。そこには「神奈川県指定史跡品濃一里塚」(昭和41年〔1966年〕に県指定の史跡となる)の碑があり、高い木々が聳える塚の地面には無数の根が張り出ていました。

 ここ「品濃一里塚」は、江戸日本橋から9番目の一里塚。保土ヶ谷宿の一里塚と戸塚宿の一里塚の中間。神奈川県内でほぼ完全な形で一里塚が残る唯一の遺跡で、大変貴重なもの。

 それからの旧東海道も、ごくごく普通の道。やがて住宅街が途切れて、尾根道となり、両側の視界が広がります。

 ごく普通の、やや幅の広い尾根道。ほんとうにこれが東海道なのか。

 疑心暗鬼になりながら進んでいくと、やっと左手の「柴田農園」脇に「旧東海道」の標示がありました。やはり、この道で間違いではなかったのです。

 左手に平戸小学校。

 右手に「平戸果樹の里」との標示があり、そこには「このあたりは昔、東海道の街道筋で茶屋などがありました」と書いてある。道は依然尾根道。左右の視界が広がり、うぐいすの鳴き声が聞こえてくる。

 これが「由緒正しい」「格式のある」東海道とは!!

 ハイキングコースとして整備されているわけでもない。「東海道」であることを丁寧に見やすく示す標示(公共の標示─例えば戸塚区の)があるわけでもない。

 しかし、全然整備されていないのも、また一興で、これはこれでいいか、と思いつつ坂を下ると、「地域作業所りーふ東戸塚」という施設の傍らに出ました。少し進んで環状2号にぶつかったのですが、旧東海道を示す標示は何もなし。

 やはり今まで通ってきた道は東海道ではなかったのではないか、と思い直し、ショルダーバッグの中の『ウォーキングマップル神奈川』(昭文社)を取り出して調べてみると、なんと、旧東海道は平戸小の手前で右折(西に折れる)していました。

 そんな道や標示(案内)はあったっけ、と思いつつ、急な坂道を登り、平戸小の入口付近まで戻りました。
 
 そこで畑仕事をしていた年配の女性に、「この道は東海道ですか」と聞くと「東海道ですよ」とのこたえ。「東戸塚の駅の方へ行きたいんですが」と道を聞いていると、通りかかった中年の男性が「連れてってあげるよ」とのこと。この男性に、「この道は東海道ですか」と聞くと、やはり「東海道ですよ」。

 話をしながらしばらく進み、右折して環状2号を陸橋で渡ると、正面には高層マンション群が広がっていました。

 案内してくれる男性の話では、このマンション群は熊谷組が開発したものらしい。一時期熊谷組の経営が厳しくなって、なかなか全棟が完成しなかったという。名前は「AURORA CITY」。私が住んでいる愛川町の丹沢の山々の近くとはまったくの別世界。

 「AURORA CITY」に入って、書店に用があるという案内の男性とともに、私も「LIBRO」という名の書店に入りました。品揃えはなかなか豊富でした。買いたい本はいろいろとありましたが、結局は、『武士、ローマを行進す 支倉常長』田中英道(ミネルヴァ書店)一冊を購入して、店を出ました。

 案内図によると、ここには、「daiei」や「SEIBU」が入り、「AURORA MALL」や「Be タワー」、「タワーズシティ」といった施設があるようです。

 エスカレーターの右側を歩いて、下へ下へ下りて行きます。山の斜面に建てられた建物を下っているのです。そして長い陸橋を渡った先が、JR東戸塚駅。

 駅の構内は、土曜日ということもあって人で溢れていました。

 横浜駅までの切符を購入し、東戸塚駅のホームに出たのが16:05。16:12に「上総一ノ宮」行きがやってくることを確認。ここは東海道線の駅ではなく横須賀線の駅で、「湘南新宿ライン」が走っています。このラインは、逗子を出て、新宿・池袋・大宮・久喜を経由して、なんと宇都宮まで直行するのです。

 そればかりか、千葉・佐倉を経由して成田空港まで直行する電車、千葉から分かれて蘇我を経由して外房線上総一ノ宮(16:12のがそう)へ行く電車、やはり蘇我を経由して木更津を経て君津まで行く(内房線とつながる)電車がある。

 ここから、横浜・品川・新宿・池袋・大宮・千葉など、さらには宇都宮や成田空港まで、乗り換えなしで直行できるというのだから、便利と言えば、便利この上ない。電車に乗ってしまえば、雨に濡れる心配もない。鎌倉や逗子、横須賀にもいたって近い。

 こういう大型マンション群が成立する立地条件(交通の便)を備えているのです。

 横浜駅へ向かって疾走する横須賀線の車窓からは、進行方向右手に、今日歩いた「旧東海道」が、町並みの中に見え隠れしました。


○参考文献

・『ウォーキングマップル神奈川 歩く人の地図』(昭文社)
・『ガイドブック 戸塚の散歩道』郷土戸塚区歴史の会編集(「みんなで探ろう郷土の歴史」実行委員会発行)
・『神奈川県の歴史散歩』(山川出版社)

 インターネット
・「横浜市 保土ヶ谷の坂道」
・戸塚区役所ホームページ
・保土ヶ谷区役所ホームページ


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