鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.5月の「東海道保土ヶ谷宿」取材旅行   その1

2007-05-20 09:54:11 | Weblog
 横浜駅西口に出たのは7:12。見上げる空は薄曇。風はやや強く、湿度があってやや蒸し暑い。高島屋の前を過ぎて右折。西口バスターミナルに出て、地下街(「The DIAMOND」・いわゆる「ダイアモンド地下街」)に入ります。

 地下街を出て、北幸橋を渡り、陸橋で環状1号を越えると、やがて黒い欄干のある陸橋が見えてきます。それが「上台橋」。橋の手前左側の階段をのぼると、上台橋の上に出ますが、そこが旧東海道。切り通しの道路が出来たことによって、昭和5年(1930年)にここに陸橋が架けられたということなので、昔からここに「上台橋」があったわけではありません。

 橋のたもとに小さな広場があって、そこに、「神奈川宿歴史の道」のガイドパネルが立っています。それには、神奈川宿が、県名や区名の由来であり、また近代都市横浜の母体であったことや、上台橋のことが記されていました。

 上台橋は、神奈川宿の左端に当たり、かつてこの辺りは、潮騒の聞こえる海辺の道であったとのこと。やや東側の台町の崖下には、神奈川湊が広がっていたのです。

 その面影は、全くといっていいほど残ってはいません。

 「上台橋」から、旧東海道を西へ進むと、右手に軽井沢公園。その奥をさらに右手に入ると、法華宗勧行寺というのがあり、さっそく中に入ってみると、境内の左手に大きなイチョウの木(横浜市・名木古木指定)。そのイチョウの右隣りの碑のさらに右隣りに墓石があって、「誠」と染め抜かれた白黒の旗が置いてある。興味を覚えて近寄ってみると、その墓石には、「天然理心流之祖 近藤先生之墓」と刻まれています。

 「近藤先生」というと、新選組の近藤勇(いさみ)を思い出しますが、ここに墓があるわけはない。

 お寺の住職らしき方を見かけて、お聞きすると、この近くの道場で幕末に剣道を教えていた人物で、近藤勇を教えた人の墓であるらしいが、詳しいことはよくわからない、とのこと。

 もう一度近付いて、墓石を子細に見てみると、

 「剣法之流祖 通称内蔵助長裕 法号 智正院顕隆日理居士」

 とあり、右側面に、「文化四年丁卯十月十六日卒」。左側面に、「祠堂金寄附 桑原昌英 同門人中」と刻まれています。

 「文化四年丁卯」の年というと、1807年。

 近藤勇は、天保5年(1834年)10月5日に、武蔵国多摩郡石原村辻(東京都調布市)に生まれていますから、この墓石の人物とは、直接関係はなさそうです。

 近藤は、嘉永2年(1849年)の10月19日に天然理心流の近藤周助の養子になり、万延元年(1860年)の8月に、天然理心流の宗家(そうけ)の四代目を継いでいます。

 この天然理心流の流祖が、この墓石の人物である「近藤長裕」。通称「近藤内蔵助」であるらしい。

 ということで、帰宅後、インターネットで調べてみると……。

 いやはや、インターネットはやはり便利なもので、「天然理心流」「近藤内蔵助」で検索すると、いろいろなことがわかって来ました。

 それによると、近藤内蔵助(長裕〔ながひろ〕)は「遠江」(現在の静岡県)の出身。生年は不明。諸国を歩いて修行を積み、常陸の鹿島神宮に詣でて剣術の極意を悟り、寛政年間(1789~1801)の初め頃に「天然理心流」を創始。

 内蔵助は、江戸薬研堀(現在の中央区日本橋2丁目あたり)に道場を開き、そこから相州や武州(多摩地方)の地に通って、天然理心流を広めたようです。

 亡くなったのは文化4年(薬研堀の自宅において)。子がなかった内蔵助は、武州多摩郡戸吹村の坂本三助(方昌〔のりゆき〕)を養子として2代目を継がせ、この三助は多摩郡小山村(東京都町田市)の島崎周助を養子として近藤周助(邦武)とし(このあたりのことは不確かで、諸説があるようです)、この周助は、多摩郡石原村辻の宮川勝太を養子として近藤勇(昌宣)と名乗らせました。後に、この勇が、有名な新選組の局長となります。

 墓所は、東京都江東区北砂町の妙久寺。八王子の桂福寺と横浜市勧行寺に「供養碑」があるとされています(『WIKIPEDIA』「近藤内蔵之助」の項)。

 ここ勧行寺にあるのは、近藤内蔵助の墓ではなく「供養碑」だという。

 墓石の左側面に刻まれている「桑原昌英」という人物についても、検索してみると、驚いたことにちゃんと出てきました(「多摩の人と歴史 桂福寺」)。

 それによると、桑原英助昌英は、天然理心流の師範代を継承し、のちに天然理心流別系三代目を継いだ人のようです。勧行寺の墓は「墓碑」であり、桑原昌英およびその門人が、近藤内蔵助の供養を行ったおりに建てたものであるようです。

 おそらくこの桑原昌英は、この近辺に道場を構え、近藤内蔵助を招いて天然理心流を教わり、門人をとって天然理心流を教えていた人のように思われますが、どういう人であったのか、どこに住んでいたのか、など詳しいことはわかりません。

 ちょっと何気なく入ってみたお寺で、思いがけぬ出会いがある。これが、現場を歩く醍醐味というもの。

 勧行寺を出て、再び東海道。閑静な住宅街の中を行きます。

 宮谷(みやがや)小学校入口交差点を渡って、街道右手の石段を登ると「浅間神社」という古い社。

 石段を下って東海道に戻り、西に進むと、右手に「ほどがや 歴史の道 追分」のガイドパネル(以後、この「ほどがや 歴史の道」のガイドパネルは、要所要所に設置されていて、たいへん便利)。

 それによると、八王子道は、ここより帷子(かたびら)川に沿って伸び、町田・八王子へと続く道で、安政6年(1859年)、横浜開港以後は、八王子方面から横浜へ絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれている、とのこと。

 しばらく行くと、右手に鳥居。こちらが浅間神社の正式な参道でした。
 「浅間神社と富士の人穴(ひとあな)」と書かれたガイドパネルによると、浅間神社は、富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられ、旧芝生(しぼう)村の鎮守さま。昔は神社がある山(袖すり山)の下が、すぐ波打ち際であったそうです。

 ここには「富士の人穴」と言われた「横穴古墳群」があって、東海道を往還する人々が見物する名所となっていたそうですが、今は、古墳の入口(「人穴」)らしきものは境内のどこにも見当たりません。

 石段を下りて東海道に戻ると、やがて「洪福寺 松原商店街」。
 商店街の入口のアーケードの右手に、「歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図」があり、大変便利です。

 この「案内図」には、初代広重の「東海道五十三次細見図会 程ヶ谷 道中風俗」の絵が掲載されており、「宿引」や「大山参詣人」の姿が描かれています。また「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)─文化3年(1806年)─から」の保土ヶ谷宿の部分が載せられています。

 商店街は、通りの上に無数のカラフルな旗がなびき、朝の開店の準備に活気が満ちていました。早々と露店が並んでいる通りもあって、少し古さびた懐かしい雰囲気が漂っています。後で聞いたところ、戦前から続く伝統のある商店街であるようです。

 16号線の、「松原商店街入口交差点」を渡ると、今度は「シルクロード天王町」に入ります。入って左手に「ほどがや歴史の道 江戸方見附跡」のガイドパネル。

 「見附(みつけ)」は、土盛をした土塁の上に、竹の木で矢来(やらい)を組んだ構造をしていて「土居」とも呼ばれたとのこと。本来は、簡易な防御施設として設置されたものですが、同時に、宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたとも。上方(かみがた)見附までを「宿内(しゅくうち)」と言い、街道両脇には家々が軒を並べていました。「宿内」は、外川神社付近の上方見附までおよそ19町(約2キロ)。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進んだということです。

 保土ヶ谷宿は、慶長6年(1601年)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置された、江戸から4番目の宿場町。慶安元年(1648年)を境に大改修が行われて道筋が現在のように変わりました。

 保土ヶ谷・岩間・神戸(ごうど)・帷子(かたびら)の四ヶ町で構成され、本陣が1軒、脇本陣が3軒ありました。旅籠屋は70軒ほど。「宿内」には、旅籠屋のほか、煮売屋・小間物屋・雑貨屋・髪結床・商家・鍋釜商・食品店・綿屋・染物屋・建具屋・畳屋などが建ち並んでいました。  

 「宿内」を除いては、街道両脇には松並木が続いていたとも。

 やがて右手に橘樹(たちばな)神社。ここは古くからのこの土地の氏神で、「お天王さま」(天王町の由来)と崇(あが)められてきました。古そうな狛犬があります。「嘉永五年」(1852年)のものでした。社殿左には「力石」3個。社殿裏手左側には、横浜市最古という「青面金剛(しょうめんこんごう)」像。

 帷子橋で帷子川を渡り、相鉄線天王町駅に到着したのが9:32。習性みたいなもので、ガード下の書店「SOTETSU BOOK」に入る。「藤沢周平没後十年」ということで、藤沢周平の文庫本がズラッと5段にわたって並んでいました。

 駅前に「天王町駅前公園」があり、中に(旧)帷子橋が復元されていますが、もちろん昔通りではありません。「横浜市地域史跡 旧帷子橋跡」と記されたガイドパネルによると、この帷子橋は、「大橋」とも「新町橋」とも呼ばれ、長さは十五間(約27メートル)、幅三間(約5.5メートル)。高欄付きの板橋でした。初代広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」に描かれるなど有名な橋であったようです。

 天王町駅前バス停のところに「歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図」。これは道歩きをする者にとって、とっても便利で親切な設備です。

 保土ヶ谷区は今年で区制80周年を迎え、その記念事業の一つとして「歴史の道 ほどがや総タイル整備計画」を推進しているようです。天王町駅前公園内前を起点として、本陣跡を終点とする道筋、約1270メートルの間を整備するらしい。

 「道」をこよなく愛する人間としては、うれしい事業です。

 この天王町駅前からしばらく、東海道はまっすぐ伸びています。両側の歩道の街路樹の下に、休憩用として四角い大理石の腰掛がさりげなく置いてあるのが、いい。

 途中、「大門通り」というのがあって、そこを右折すると「相州道」。先ほどの「八王子道」(「絹の道」)も、この「相州道」も、いずれ機会があれば歩いてみたい道です。


 ということで、長くなりました。

 続きは次回に回します。

 では、また。


○参考文献

・『保土ヶ谷ものがたり』(保土ヶ谷区制50周年記念事業実行委員会)
・『ウォーキングマップル神奈川 歩く人の地図』(昭文社)
・『「東海道」読本』(川崎市市民ミュージアム)
・『神奈川の東海道』(神奈川東海道ルネッサンス推進協議会)
・『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)

 インターネット
・「多摩の人と歴史 天然理心流」
・「多摩の人と歴史 桂福寺」
・「天然理心流剣術」(Wikipedia)
・「近藤内蔵之助」(Wikipedia)


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