鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「風船爆弾」について その1

2008-01-19 06:03:46 | Weblog
 1942年(昭和17年)4月17日の夕刻、時の首相東條英機は栃木県宇都宮に列車で到着。旅館「八百駒」に泊まり、翌日の早朝、朝食を摂る前に旅館付近を単独視察しました。天気は快晴でした。

 正午少し前、東條英機一行は宇都宮飛行学校飛行場からMC20型輸送機に乗り込み、水戸へ向かいました。水戸に近づいた時、防空戦闘機が次々と急発進するのを目撃。と間もなく、1機のアメリカ軍爆撃機(B25双発爆撃機)とすれ違いました。「なぜこんなところをアメリカの爆撃機が飛んでいるのか」。東條自身がそれを目撃したかどうかははっきりしませんが、同乗の者たちでアメリカ軍爆撃機を目撃した者は、我が目を疑ったに違いない。

 12:15、水戸の航空通信学校飛行場に着いた東條英機は、「東京がいま空襲されたばかりだ」との驚愕すべき事実を知らされます。

 東京を空襲したのは、ドウーリットル中佐の率いるB25爆撃機16機。この16機は、犬吠埼東方沖約1500kmの航空母艦「ホーネット」艦上から発進しました。B25爆撃機は艦載の海軍機ではなく陸軍の爆撃機であって、航続距離が長く2400kmを飛ぶことができる。それをさらに改造して3200kmを飛ぶことができるようにしてありました。

 16機のうち1番機が東京を空襲したのは12:15~12:30の間。この1番機の操縦桿を握っていたのはドウーリットル中佐その人でした。

 著者の吉野興一さんは、東條英機が乗ったMC20型輸送機が水戸の上空ですれ違ったアメリカ軍爆撃機は、このドウーリットル中佐が操縦していたB25双発爆撃機ではなかったかと推測されています。この爆撃機は水戸上空から東京上空へ向かっていたのです。

 16機は思い思いのコースを西へと飛んで、横浜・横須賀・名古屋・四日市・和歌山・神戸などで機銃掃射や爆撃を繰り返し、東シナ海上空を経て、ソ連領に向かった1機、中国大陸に着いたところで燃料切れから墜落した2機、合わせて3機を除く13機が中国大陸の中国軍航空基地に着陸しました。

 東京の北部より侵入した2機のうち1機は、早稲田大学講堂に焼夷弾を投下、もう1機は西大久保住宅地に焼夷弾を投下しました。

 このドウーリットル隊の空襲により、死者45名、重傷者153名、家屋全半焼289戸、全半壊42戸という被害が生じました。

 16機のうち6番機と16番機の2機は、中国大陸に着いたところで燃料が切れて墜落。生存していた搭乗員は中国戦線の日本軍に捕まり、16番機の残骸は東京に運ばれ、靖国神社の臨時大祭で一般公開されたとのこと。

 軍は「敵機九機撃墜」と発表しましたが、「撃墜」した爆撃機は実は1機もなかったのです。

 「東京がアメリカ軍機により空襲を受けた」との報告を得た東條の驚愕はいかほどであったか。東京の皇居には天皇(昭和天皇)がおり、東條はその天皇から厚い信頼を受けていました。その厚い信頼をゆり動かすようなゆゆしき事態が生じてしまったのです。

 なぜアメリカの爆撃機の本土侵入を許してしまったのか。なぜ事前に察知して防空体制をとることができなかったのか。

 当時の日本軍にとって、太平洋上の航空母艦から航続距離の長い陸軍用爆撃機が発進してくるなどといったことは、まったくの「想定外」のことだったのです。

 同4月18日、東條英機の一行は予定されていた飛行機には乗らずに、午後3時水戸駅発の常磐線の列車に乗車。

 17:45に上野駅に到着した東條はただちに首相官邸に急行し、そこで空襲に関する情報を収集するとともに、皇居に赴いて天皇に報告。天皇に面した時の東條の心情は、いかばかりであったか。

 東條は、その後、迅速に動き始めます。

 4月20日、陸軍省の中心である軍務局の人事異動を行い、新局長に東條の右腕と言われた佐藤賢了を就け、全陸軍の中枢神経とも言える軍務局軍事課の新課長に、東條の大臣秘書官兼副官であった西浦進を就けました。

 そしてそれから数日後、杉山元(はじめ)参謀総長がいくつかの重要な処置を決定するのですが、その1つが「中国軍飛行場への総攻撃」であり、もう1つが「気球に関する処置」、すなわちアメリカ本土の気球による直接攻撃計画の命令であったのです。


 続く

○参考文献
・『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)


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