気球は軍事兵器として重要視されていました。たとえば1927年(昭和2年)、「独立気球隊」の営舎が千葉市北部の都賀村作草部に移されていますが、この「気球隊」は近衛師団の野戦重砲兵第10連隊に所属していました。気球からの上空写真により敵陣偵察を行い、野戦重砲隊の射撃を支援するものであったのです。
日中戦争が始まると、「独立気球連隊」というものがあって、それは気球車・撃留車(ワイヤの巻き取り機・ワイヤに電話線が入っている)・水素缶車・貨車(兵士を乗せるトラック)・乗用車(将校用)で構成されていたとのこと。
気球は、おもに敵陣偵察用として重視されていたと思われます。
気球を爆弾を載せた兵器、すなわち「風船爆弾」として使用するという発想は、昭和17年(1942年)4月のアメリカ軍機による本土初空襲より本格化したのでしょうか。
和紙気球の実験・研究を担当したのは東京新宿百人町の陸軍科学研究所(科研)の第一部第六班。後にこれは大部分が登戸の陸軍第九科学研究所(「登戸研究所」)に移転。この登戸研究所が、アメリカ本土を直接攻撃する気球兵器の開発(気球によるアメリカ本土直接攻撃作戦のことを「ふ」号作戦と言いました。「ふ」とは「風船」の「ふ」)の中心となりました。現在、明治大学の生田校舎があるところです。その第一科が「ふ」号開発を担当。責任者は草場季喜技術大佐でした。
当初、気球兵器によるアメリカ本土直接攻撃といっても、それは潜水艦を利用するものであったらしい。潜水艦で出来るだけアメリカ本土に接近して、そこから気球兵器を飛ばそうというものでした。
しかしその計画は、第三次ソロモン海戦(1942.11)、ガダルカナル島の戦闘(1943.2)の敗北により完全に頓挫。それに代わって、日本から直接アメリカ本土に気球兵器を飛ばして攻撃するプランが浮上してきたのは1943年(昭和18年)7月のことでした。
陸軍省軍務局長佐藤賢了少将と軍務局課員国武輝人との間で次のような会話が交わされたというのです。
「ここまでは敵にやられっぱなしだが、何か敵をアッと言わせるような手はないものであろうか」(佐藤)
「気球兵器で敵地を直接攻撃するプランの可能性がありますが」(国武)
「ひとつやってみよう」(佐藤)
陸軍省から兵器行政本部を経由して、登戸研究所に、アメリカ本土を直接攻撃する気球兵器の研究命令が正式に下されたのは、1943年8月のことでした。
気球兵器によるアメリカ本土攻撃と言っても、出来るだけ潜水艦で接近して気球兵器を発射するというものではなく(これは不可能になってしまった)、日本からアメリカ本土まで直接飛ばさなくてはならない。日本からアメリカ本土まではおよそ9000キロもある。
そこで注目されたのが、ジェット気流、すなわち地球の中緯度の成層圏に吹く偏西風でした。1944年2月、ついに北太平洋上の中緯度の高層気流図が完成。ジェット気流の平均風速(毎秒)は、2月が76.1m、12月66.3m、1月62.3m、3月54.0m、11月49.0mというもので、この11月から3月までの五ヶ月間が攻撃適期とされました。
放球地点(風船爆弾を打ち上げる基地)はソ連領に達する危険性を避けるために仙台以南の太平洋岸に限定されました。また気球の直径は10mと決まりました。
風船爆弾は、球皮・排気バルブ・懸吊綱・高度維持装置・自爆用爆薬・投下爆弾・バラスト(砂)から成り立っており、重量は182kg。
球皮は、和紙とこんにゃく糊で出来ていました。つまり気球は和紙で出来ていたのです。和紙の原料は100%楮(こうぞ)。こんにゃく糊を和紙の表面に塗れば水素ガスが漏れ出ることはありませんでした。こんにゃく糊を塗った和紙を張り合わせて作った気球は、きわめて軽量で、しかも水素の透過性がきわめて低いすぐれた気球であったのです。
10m気球一個を作るためには、3000枚程度の気球用和紙とこんにゃく粉約90kgを必要としました。
1944年(昭和19年)3月、大本営は正式に「ふ号」計画を実施する断を下します。10m気球の総数は15000個と予定され、それにもとづいて日本各地で気球が製造されることになったのです。
風船爆弾の打ち上げ基地の選定も始まりました。基地の選定条件は以下の四つ。
1.仙台以南の太平洋岸(ソ連領への到達を避ける)
2.鉄道沿線(物資の輸送に便利なこと)
3.海岸に近く砂が容易に手に入る(砂はバラストとして使用)
4.山で遮蔽された地形(放球の直後に地上風の影響を受けにくいことと防諜用の配慮から)
登戸研究所の草場技術大佐の現地調査も行われて、最終的に絞られたところが、福島県勿来(なこそ)と千葉県一宮、そして茨城県の大津(長浜海岸)の三ヶ所でした。
基地建設のため、直ちに土地の接収が行われました。
大津の場合、1944年(昭和19年)5月2日、基地建設予定地の地権者(70名)が大津の公民館に集められ、陸軍第二造兵廠の将校から10日以内に立ち退くように命令されました。
そして接収された土地に、円形のコンクリート製発射台(放球台・直径10m・三本の沢沿いに20ヶ所ほど)・水素自家発生装置(コンクリート製ガスタンク・3ヶ所?・海からパイプで海水を引いて水素ガスを製造する装置)・二階建て倉庫・弾薬庫・事務所・三角兵舎・周囲を取り囲む柵と鉄条網・三ヶ所の門などが造られました。面積はおよそ40万坪でした。
大津基地の施設がすべて完成したのは1944年(昭和19年)9月。そこに藤田義春大隊長率いる第一大隊(三個中隊)1500名が入ってくるのですが、部隊長の宿舎としては五浦(いづら)海岸の岡倉天心旧居が当てられ、また隊付将校の宿舎としては岡倉天心旧居付近の2、3の高級別荘が割り当てられたということです。
少し遡った1944年(昭和19年)6月末、首相東條英機は「ふ号」作戦の実施を天皇に奏上。天皇はその作戦実施を了承。ソ連領土には落下させないように注意せよ、との指示を与えました。
続く
○参考文献
・『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)
※この「『風船爆弾』について」の稿は、この本の内容をまとめたものです。
・『風船爆弾秘話』櫻井誠子(光人社)
日中戦争が始まると、「独立気球連隊」というものがあって、それは気球車・撃留車(ワイヤの巻き取り機・ワイヤに電話線が入っている)・水素缶車・貨車(兵士を乗せるトラック)・乗用車(将校用)で構成されていたとのこと。
気球は、おもに敵陣偵察用として重視されていたと思われます。
気球を爆弾を載せた兵器、すなわち「風船爆弾」として使用するという発想は、昭和17年(1942年)4月のアメリカ軍機による本土初空襲より本格化したのでしょうか。
和紙気球の実験・研究を担当したのは東京新宿百人町の陸軍科学研究所(科研)の第一部第六班。後にこれは大部分が登戸の陸軍第九科学研究所(「登戸研究所」)に移転。この登戸研究所が、アメリカ本土を直接攻撃する気球兵器の開発(気球によるアメリカ本土直接攻撃作戦のことを「ふ」号作戦と言いました。「ふ」とは「風船」の「ふ」)の中心となりました。現在、明治大学の生田校舎があるところです。その第一科が「ふ」号開発を担当。責任者は草場季喜技術大佐でした。
当初、気球兵器によるアメリカ本土直接攻撃といっても、それは潜水艦を利用するものであったらしい。潜水艦で出来るだけアメリカ本土に接近して、そこから気球兵器を飛ばそうというものでした。
しかしその計画は、第三次ソロモン海戦(1942.11)、ガダルカナル島の戦闘(1943.2)の敗北により完全に頓挫。それに代わって、日本から直接アメリカ本土に気球兵器を飛ばして攻撃するプランが浮上してきたのは1943年(昭和18年)7月のことでした。
陸軍省軍務局長佐藤賢了少将と軍務局課員国武輝人との間で次のような会話が交わされたというのです。
「ここまでは敵にやられっぱなしだが、何か敵をアッと言わせるような手はないものであろうか」(佐藤)
「気球兵器で敵地を直接攻撃するプランの可能性がありますが」(国武)
「ひとつやってみよう」(佐藤)
陸軍省から兵器行政本部を経由して、登戸研究所に、アメリカ本土を直接攻撃する気球兵器の研究命令が正式に下されたのは、1943年8月のことでした。
気球兵器によるアメリカ本土攻撃と言っても、出来るだけ潜水艦で接近して気球兵器を発射するというものではなく(これは不可能になってしまった)、日本からアメリカ本土まで直接飛ばさなくてはならない。日本からアメリカ本土まではおよそ9000キロもある。
そこで注目されたのが、ジェット気流、すなわち地球の中緯度の成層圏に吹く偏西風でした。1944年2月、ついに北太平洋上の中緯度の高層気流図が完成。ジェット気流の平均風速(毎秒)は、2月が76.1m、12月66.3m、1月62.3m、3月54.0m、11月49.0mというもので、この11月から3月までの五ヶ月間が攻撃適期とされました。
放球地点(風船爆弾を打ち上げる基地)はソ連領に達する危険性を避けるために仙台以南の太平洋岸に限定されました。また気球の直径は10mと決まりました。
風船爆弾は、球皮・排気バルブ・懸吊綱・高度維持装置・自爆用爆薬・投下爆弾・バラスト(砂)から成り立っており、重量は182kg。
球皮は、和紙とこんにゃく糊で出来ていました。つまり気球は和紙で出来ていたのです。和紙の原料は100%楮(こうぞ)。こんにゃく糊を和紙の表面に塗れば水素ガスが漏れ出ることはありませんでした。こんにゃく糊を塗った和紙を張り合わせて作った気球は、きわめて軽量で、しかも水素の透過性がきわめて低いすぐれた気球であったのです。
10m気球一個を作るためには、3000枚程度の気球用和紙とこんにゃく粉約90kgを必要としました。
1944年(昭和19年)3月、大本営は正式に「ふ号」計画を実施する断を下します。10m気球の総数は15000個と予定され、それにもとづいて日本各地で気球が製造されることになったのです。
風船爆弾の打ち上げ基地の選定も始まりました。基地の選定条件は以下の四つ。
1.仙台以南の太平洋岸(ソ連領への到達を避ける)
2.鉄道沿線(物資の輸送に便利なこと)
3.海岸に近く砂が容易に手に入る(砂はバラストとして使用)
4.山で遮蔽された地形(放球の直後に地上風の影響を受けにくいことと防諜用の配慮から)
登戸研究所の草場技術大佐の現地調査も行われて、最終的に絞られたところが、福島県勿来(なこそ)と千葉県一宮、そして茨城県の大津(長浜海岸)の三ヶ所でした。
基地建設のため、直ちに土地の接収が行われました。
大津の場合、1944年(昭和19年)5月2日、基地建設予定地の地権者(70名)が大津の公民館に集められ、陸軍第二造兵廠の将校から10日以内に立ち退くように命令されました。
そして接収された土地に、円形のコンクリート製発射台(放球台・直径10m・三本の沢沿いに20ヶ所ほど)・水素自家発生装置(コンクリート製ガスタンク・3ヶ所?・海からパイプで海水を引いて水素ガスを製造する装置)・二階建て倉庫・弾薬庫・事務所・三角兵舎・周囲を取り囲む柵と鉄条網・三ヶ所の門などが造られました。面積はおよそ40万坪でした。
大津基地の施設がすべて完成したのは1944年(昭和19年)9月。そこに藤田義春大隊長率いる第一大隊(三個中隊)1500名が入ってくるのですが、部隊長の宿舎としては五浦(いづら)海岸の岡倉天心旧居が当てられ、また隊付将校の宿舎としては岡倉天心旧居付近の2、3の高級別荘が割り当てられたということです。
少し遡った1944年(昭和19年)6月末、首相東條英機は「ふ号」作戦の実施を天皇に奏上。天皇はその作戦実施を了承。ソ連領土には落下させないように注意せよ、との指示を与えました。
続く
○参考文献
・『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)
※この「『風船爆弾』について」の稿は、この本の内容をまとめたものです。
・『風船爆弾秘話』櫻井誠子(光人社)
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