鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その4」

2008-01-12 08:47:27 | Weblog
 いよいよ今回の取材旅行の最後の取材先になります。目的地は日立市の「助川海防城」跡。

 勝田駅で常磐線「いわき」駅行きの普通電車に乗り換え、12:48に日立駅到着。リュックやお土産など荷物が重いので、必要最小限のものを持って、あとは駅前のコインロッカーに預けました。

 案内マップで、「助川城趾公園」の場所を確認。周辺には「太陽の家」「ひまわり学園」「しいの木学園」「茨城病院センター日立病院」「日立工業高校」などがある。「助川城趾公園」は、「日立工業高校」のほぼ北裏にあたる。

 駅からはちょっと遠そうなことと、帰りの電車の時間も考えて、臨機応変、駅前よりタクシーに乗り、帰りに歩くことにしました。

 タクシーは駅前より見事な桜並木の間を走る。

 運転手さんによると、桜の樹齢はおよそ80年。

 「桜の花が咲いた時は、きれいですよ~」

 とのこと。

 「助川海防城まで、駅から歩くとどれぐらいですか」

 と聞くと、

 「30分くらいかなあ」

 ということでした。

 タクシーを利用するのはもっぱらビジネスマン。観光客はほとんどいないらしい。

 「日立は観光地はないからね」

 と、運転手さん。

 13:06に、海防城の下の坂道(登り口)に到着。そこでタクシーを降りて、坂道を上がり始めました。右手には団地が建ち並んでいるのが見え、振り返ると群青色(ぐんじょういろ)の海(太平洋)が見える。

 坂道を上がって左折したところに「養正館跡」の標柱がありました。その右手のガイドパネルによると、この「養正館」は、水戸藩家老山野辺義観(やまのべよしみ・1万石)が天保8年(1837年)に開設した家臣の子弟教育のための施設。「文武一致」をモットーとし、4年後に開館された水戸の弘道館に先駆けたものであるとのこと。

 案内図があり、だいたいの地理を確認。「養正館」は現在の「太陽の家」の北側に位置し、本丸館(やかた)は「さくらんぼ学級 母子療育ホーム」「鳩ケ丘スポーツセンター」の北側に位置する。「海防城」は相当の規模を有していました。

 「養正館跡」から南を望むと、町並み越しに、左右に海が広がっている。

 下から上がって来る石段の傍らに「鳩石」というものがありました。よく見ると石の表面に鳩の姿が刻まれている。これは山野辺義観が、かわいがっていて死んだ鳩の姿を、庭石に自分で刻んだものだという。この周辺の「鳩ケ丘」という地名は、この「鳩石」に由来しているようです。

 公園内の道を西へ進むと、「尊王攘夷」の碑。その碑の手前を右へ折れ石段を上ると「史跡 助川海防城跡 指定茨城県教育委員会」と刻まれた石碑が立っており、その右隣にガイドパネルがありました。

 それによると、水戸藩主斉昭は天保7年(1836年)に家老山野辺義観を海防総司に任命。わが国にも当時類例のない海防を目的とする城郭を築きました。完成までに5年の歳月を要しました。総面積は約68万平方m(20余万坪)。城の表門は助川小学校の校門付近、三の丸は助川小学校の敷地付近、二の丸は「太陽の家」の敷地付近にありました。本丸には、異国船を見張る櫓(やぐら)もあったとのこと。

 例によって、この「海防城」も元治元年(1864年)の内乱(「元治甲子の乱」)で焼失。当時の遺構としては、本丸表門の礎石の一部と、二の丸にあった「鳩石」が残るのみだという。

 大仏(おさらぎ)次郎さんが昭和40年(1965年)の12月中旬、ここを取材し、「夕顔小路」という小説で落城前後の模様を描いたということです。

 館(やかた)入口付近には家臣の住宅や器具製造場があり、山道を登って馬場や矢場を過ぎると柵門があって、門を入るとすぐに養正館がある。その北西には馬屋。そこから表門を潜ると鐘楼や矢倉がある。この鐘楼は異国船が発見された時に、鐘を突き鳴らすものであったに違いない。居宅入口の門を潜ると、そこには蔵や御殿・新御殿(本丸)がありました。本丸の裏手には裏門があり、また本丸の下(南側)には家臣の住宅や鉄砲教練所がありました。

 石碑左手の石段を上ると、「本丸館跡」の標柱。

 芝生広場を右手の方へ入っていくと、左側に「表門礎石跡」、右側に「遠見番所跡」がありました。この表門から中に入ると、鐘楼や矢倉があり、また左手に遠見番所があったのです。

 「表門礎石跡」や「遠見番所跡」がある広場は梅林となり、南方向を望むと、左右に太平洋が広がる。右手は丘陵で隠れるため180度の視角とはいえない。150度くらいでしょうか。たしかに沖合いを通過する異国船を、ここからなら目で捕捉することが出来る。

 表門の下は、かつては石段があったのでしょう。下へ降りていく道筋は人家があって途絶えています。そこから下へさらに降りていくと馬場があったと思われる。現在の「ひたち市ひまわり学園」「しいのき学園」「日立市母子療育ホーム」の辺りが馬場のあったところでしょうか。馬場の下は家臣の屋敷地となっていました。

 「日立市鳩が丘スポーツセンター」の前の道を左折して、ゆるやかな坂道を下っていく。おそらく当時の山の斜面には、各施設を結ぶ山道が縦横に伸びていたように思われます。

 やがて、先ほどタクシーから降りた地点に出る(13:53)。

 左手は、「日立市御殿山団地」のアパート群。通りの右は城南町、左は助川町。

 右折して「鳩ケ丘駐車場」を抜けて「セブン・イレブン」前を右折。右手に「茨城県日立保健所」を見て国道6号線の交差点を左折。助川小学校の前には「一里塚」があったそうです。

 国道6号線を東に進むと、左手、「日立市保健センター」前に「桜と歴史の息づく助川マップ」。

 「常陽銀行」前を右折して見事な桜並木のある通り(「平和通り」という)に入る。

 左手に、蔵の2つある屋敷。

 14:25、駅前少し離れたところにある「日立シビックセンター」に入りました。

 なぜ「日立シビックセンター」かというと、ここには日立市の「記念図書館」があるため。

 1階通路両側には、リサイクル図書がダンボール箱に入れられずらりと並んでいて、本を探す人たちが大勢います。早速2階に上がり「参考・郷土資料室」へ。

 『水郷つちうら回想』保立俊一(筑波書林)
 『新・利根川図誌』山本鉱太郎(崙書房出版)
 『茨城の史話』瀬谷義彦(茨城新聞社)
 『他藩士の見た水戸』久野勝弥編(水戸史学会)
 『水戸藩天保改革と豪農』乾宏巳(清文堂)
 『ふるさと文庫』(崙書房出版・筑波書林)

 などをチェック。

 14:50に出ました。

 日立駅で15:10発の水戸行き普通電車に乗り、勝田駅で下車。奮発して、勝田始発15:36の「フレッシュひたち44号」に乗りました。特急料金は上野まで1300円。水戸→土浦→石岡→柏などを経て、上野駅に到着したのは17:08。

 山手線で東京駅に行き、東海道線で茅ヶ崎まで。茅ヶ崎で相模線に乗り換え、帰途に就きました。


○参考文献
・『茨城の史跡は語る』茨城地方史研究会(茨城新聞社)


 追記

 今回の取材旅行でも、福井へ行った時と同様、「ビジネス旅館」を利用しました。「ビジネス旅館」とは、畳敷きの和室というのが基本のビジネスのための宿。トイレは部屋にあるところもありますが、多くはトイレもお風呂も共同であるようです。

 私の場合、畳でふとん敷きというのが落ち着き、安眠できるのです。またトイレや風呂が共同ということもあってビジネスホテルよりも廉価(れんか)。宿泊代が安くすむのが何よりです。

 今回泊まった「山城屋旅館」の場合、8畳の和室で大型液晶画面のテレビも置いてありました。旅館の方も親切で気楽でした。押し入れだと思っていた襖(ふすま)を翌朝開けてみたところ、そこは部屋になっていて、その奥も部屋が続いていました。5部屋続きの大きな部屋で、各部屋が襖で仕切られていたのです。私はその一番端の8畳間に寝ていたことになります。

 昔の宿屋は、このような形態であったことでしょう。

 今回は素泊まりでしたが、朝・夕食も「おいしい」との評判のよう。

 また機会があったら、利用させてもらおうと思っています。

 近くの「備前堀」の風情や「ハミングロード513」も魅力でした。


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