鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-野田尻から犬目を経て大月まで その6

2017-08-05 07:29:36 | Weblog

 

 犬目峠の各所から富士山が実際にどう見えるのか、今回はあいにくうす雲がかかっていて確認することはできませんでしたが、いつか快晴の時に確認してみたいと思いました。

  「犬目宿」は一つの村が宿になったもので、もともとは下にあった集落が、街道が出来たため上に出て宿場になったもの。

 「犬目」という名称については、近くの「鳥沢」「猿橋」にちなんで「犬目」と付けたと伝えられているようですが、確かなことはわかりません。

 近くに「大目」という地名もあり、それとの関連もあるのかも知れません。

 宝勝寺から甲州街道に出て右折。

 扇山への登山道入り口を右手に見て屈曲した道を進むと、やがて左手に現れたのが「恋塚一里塚」でした。

 この一里塚は今までの一里塚跡と異なって、その原形をよく残していました。

 案内板によると、この一里塚は江戸日本橋から「二十一番目二十一里」にあたります。

 江戸日本橋からおよそ84kmということになる。

 直径約12m、高さ約5mの円丘。

 一つしか残っていませんが、かつては街道を挟んで北側にも塚があったとのこと。

 一里塚には大木は繁っておらず、草の生えた緑の円丘になっていて、背後は樹林が取り巻いています。

 そこから5分ほど進むと「←至鳥沢 旧甲州街道石畳→」を示す案内板があったので、「旧甲州街道石畳」へと右手の山道に足を踏み入れました。

 つまり途中から旧甲州街道は車道(舗装道路)から離れて別のルートを進み、ここでまた車道へと合流しているわけで、その旧道を逆に(恋塚一里塚の方向へ)進むことになりました。

 入った旧道は枯葉が堆積する山道のような細道で、よく見るとその枯草の下に平たい面を上にした石が並んでいました(もちろん車は通れません)。

 これが「石畳」の道で、広重も含めて多くの旅人が踏んだ旧道そのままということになります。

 その坂道を登るとすぐに細い舗装道路が現れ、その両側の石垣の上に建つ人家が数軒現れました。

 左手にはかつては人家があったと思われる空き地があって、そこには休憩するためのベンチも置かれていました。

 人家は新しい家もありますが、昔ながらの2階建て木造家屋や土蔵もあり、街道沿いの多くの人家がそうであるように道沿いの生垣がよく手入れされ、道端の草花も美しく咲いています。

 さらに進むと左手に石段があり、見上げると朱色の鳥居があり、その奥に社殿が見えました。

 鳥居に架かる扁額には「山住神社」とありました。

 石段を上がって歩いてきた道筋を見下ろしてみると、旧道沿いの10軒ほどの集落を見下ろすことができました。

 この石段の下のところで車道から分かれて旧道が延びていて、その道沿いに集落があるわけで、その集落へと入る道は突き当りで細い石畳みの山道となっていて、それを下ると車道に合流することになります。

 車はその突き当り手前(石畳の下り道になる手前)の人家までしか入れません。

 車道から外れているために、かつての甲州街道沿いの雰囲気を濃厚に残す集落になっていて、道を引き返す時に先ほどあったベンチに腰かけてしばらくその雰囲気を味わうことになりました。

 石畳の旧甲州街道沿いには「宝暦十一」「十二月吉日」と刻まれた犬のような顔をした面を頭につけた石仏もあり、旧道の歴史の重みを感じさせました。

 ※「宝暦十一年」は西暦では1761年になる。

 車道に戻ると、すぐに「山梨県 大月市」と記された市の境を示す道路標示が現れました。

 上野原市から大月市に入ったことになります。

 

 続く



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