鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.夏の越前福井・取材旅行 「板取宿・今庄宿・脇本宿 その2」

2007-08-30 06:21:19 | Weblog
 鹿蒜(かひる)川に架かる鹿蒜橋を渡ると「文政の道しるべ」。文政13年(1830年)に大黒屋由兵衛が世話役となり、笏谷(しゃくだに)石で建てられたもの。石柱の頭の部分に火袋があるという珍しい形式。北陸道と北国街道の追分の道しるべです。道しるべには、

 「右 京 つるが道 己可佐(わかさ) 道
  左 京 いせ 江戸 道
  夏艸(なつくさ)や ありかたき 世之志るべ石  森々庵 松後」

 と刻まれています。

 左手に「稲荷神社」。右手に「清酒百貴船 畠山酒造」の看板のある古い酒屋。のっけから古い建物が現れます。玄関脇には、「板取宿」の甲造りの民家に見られた「ふくいの伝統的民家」の標識。おそらく幕末以来の建物でしょう。同じく右手に「名産梅肉 高野由平老舗」。これも古い。

 街道筋は、昔の宿場町の雰囲気がそのまま残っています。と言って観光地化されているわけでもない。ごく普通に残っているのです。

 右手に「醸造元 京藤本家」。酒屋は2軒目。左手に問屋(脇本陣)跡(平塚家)。嘉永4年(1851年)、右衛門佐から交代。平塚家は、大野屋・谷屋とともに問屋をつとめたという。蔵だけが、山すそに残っています。

 左手に「郷社 新羅神社」。同じく左手に「燧(ひうち)ケ城址」。

 京藤呉服店の前(右手)に、高札場跡(高野伝六家・谷屋にも高札場があったとのこと)。

 右手に「越前地酒 創業享保元年 ひじりのみよ 聖之御代 北善酒造」と染め抜かれた暖簾(のれん)の掛かった古い酒屋。酒屋は3軒目。

 左手に「御札場跡」(北村善六家)。御札場は、金銀を藩札に、あるいは藩札を金銀に両替するところ。享保15年(1730年)から北村善六家が務めたという。幕末も、この北村善六家が務めていたのでしょう。

 右手に脇本陣跡。ここには財団法人啓潤会の洋風の建物があって、「昭和会館」として使われていたのが、終戦後今庄町役場として使用され、現在は今庄公民館になっています。

 建物の前に「啓潤会」を設けた「田中和吉翁」の像がありましたが、昭和18年(1943年)、戦争のための金属供出のために銅像はなくなって台座だけが残り、今はその上に大きな丸い石のモニュメントが置いてあります。古い家並みが続く街道筋の中では、ちょっと雰囲気が異なる空間になっていて、これも一興。

 左手に「明治天皇行在(あんざい)所」の立派な石碑。「近世の大宿場町 今庄」の大きな案内板が立っていて、嬉しい。それによると、

 今庄宿は、文化年間において、南から北に向かって、上町→観音町→仲町→古町→新町と並び、その間の距離は1kmほど。うち仲町には、福井・加賀両藩の本陣・脇本陣・問屋・造り酒屋・旅籠・高札場が集中していました。

 福井藩の本陣は、後藤覚左ヱ門家。後藤家は、福井藩の上領43ケ村における大庄屋でもありました。間口約10間(約18m)、奥行き37間(約67m)、建坪約100坪、部屋数20。玄関・南御門・御式台の間・お次の間・お小姓部屋を備える堂々たる本陣でした。

 福井城下から今庄宿まではおよそ8里(約32キロ)。北国街道(栃ノ木峠越え)は江戸参勤には最短路ということもあって、今庄宿は大いに賑わいました。宿馬は24匹を常備。天保年間において、戸数290余、旅籠55、茶屋15、娼屋2、縮緬(ちりめん)屋2、鳥屋15を数えました。

 明治11年(1888年)10月8日、明治天皇北陸御巡幸の際の行在所となり、その後、跡地を田中和吉(先の啓潤会を開いた人)が「公徳園」という記念公園にした、とのこと。

 公園の左手の道の脇に、高札場跡・問屋跡(旧谷屋)。公園左手奥に、庭や池の跡と思われる区域があり、また古い石灯籠が立っていました。

 通りを進むと、右手に旅籠・若狭屋。かつては屋根は檜皮葺きで、上に石が乗せてあったという。その真向かいに問屋跡(大野屋)。

 左手に「清酒 鳴り瓢(ナリヒサゴ) 堀口酒造有限会社」。造り酒屋はなんと4軒目。

 右手に「京藤甚五郎家」。これも古い商店で、変わった造りが目を引きました。


 次回に続く。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿