鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-野田尻から犬目を経て大月まで その7

2017-08-06 07:30:30 | Weblog

 

 街道の傍らの石仏を見ながら「山谷(さんや)」のバス停から左に折れて坂道を下り、「中野神社前」バス停、「中野」バス停を過ぎたところで進行方向に見えてきたのは中央自動車道の高架橋でした。

 その高架橋を潜るとすぐに「国道20号」に合流する道路標示が現れ、まもなく坂道は国道20号に合流しました。

 上野原の先で国道20号とそれてから、ようやくここで旧甲州街道は国道20号と重なることになります。

 この上野原と鳥沢の間の甲州街道は、扇山の東南ないし南側の山腹を屈曲上下しながら進んで行く道であり、鉄道や車が人や物を運搬するような時代になると、今までの主要街道から沿道の人々の生活道になってしまったということです。

 桂川沿いになぜ甲州街道が設けられなかったのかと言えば、それは桂川が造る渓谷がきわめて深く、山が渓谷に迫っていて、以前からその渓谷沿いに道が切り開かれていなかったからだと、現在の国道20号の四方津(しおつ)から梁川付近を車で走っても推測できるところです。

 長いトンネルや高架橋を造る技術が生まれたことにより、山や川は陸路輸送上の大きな障害ではなくなっていきました。

 国道20号に出るとそこは鳥沢宿があったところ(現在は富浜町鳥沢)で、ゆるやかにカーブする国道沿いにはかつての宿場町をしのばせる2階建木造家屋が点在します。

 「中野入口」バス停から「竹の入口」バス停に差し掛かる付近にはとりわけその2階建木造家屋が軒を並べています。

 「甲州街道 下鳥沢宿」と記された案内標示の先の道路標示には「甲府48km 甲州38km」と記されています。

 さらに進むと右手に大きな朱色の鳥居が現れましたが、それが「福地八幡神社」。

 案内板によると、創建は寛平年間(889年)と伝えられ、当初は扇ヶ峰に鎮座し扇社と称していたという。

 「扇ヶ峰」というのは扇山のことであるようで、この扇山は鳥沢の北面に聳えています。

 長元7年(1035年)に現地に遷座して福地八幡社と改めたということですが、江戸時代においては「大木大明神」と呼ばれていたようです。

 北面する扇山への信仰や、扇山を利用した林産業との関連もありそうです。

 古来、扇山の山腹が交通・軍事上の要衝地であったこともこの神社がここに鎮座していることと深い関連がありそうに思われました。

 社殿前から南方向を眺めると、鳥居の向こうに郡内の山々が見えるものの、その間に流れているはずの桂川は見えません。

 桂川は深い渓谷を形成しているため、その流れを見ることはなかなか容易ではありません。

 その深い渓谷はどこから始まっているのかと言えば、津久井湖のある城山ダムの下流、小倉橋や新小倉橋があるあたりから。

 そのあたりから相模川は深い渓谷をなしながら蛇行屈曲し、そしてその片側に高い河岸段丘を形成しています。

 甲州街道は多くはその河岸段丘の上面を延びており、相模川(桂川)を渡ってその南側に行くことはほとんどありません。

 今までのルートを振り返ってみると、与瀬宿から吉野宿までの間もそうであり、「二瀬越(ふたせごし)」という、相模川を渡し船で渡って日連(ひづれ)村勝瀬の集落を通過するルートも、甲州街道の本道ではなく脇道(近道)でした。

 甲州街道を進む広重が相模川(桂川)の流れを間近に見たのは、「二瀬越」の渡しのあたりと諏訪番所手前の境川の茶屋あたりにほぼ限られます。

 鳥沢宿の先では「猿橋」を渡る際と、その先の大月宿あたりまでであったでしょう。

 広重が道中わずかに垣間見た相模川(桂川)は、深い渓谷をなし、両岸が断崖絶壁になった姿を呈しており、その深い渓谷の様相に広重は深い興趣を覚えたものと思われます。

 その自然造形に向き合った深い感動が、犬目峠や猿橋を描いた彼の浮世絵にあらわれています。

 

 続く



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